はいずみ(三):堤中納言物語

| コメント(0)
今の人明日なむ渡さむとすれば、この男に知らすべくもあらず。車なども誰にか借らむ。送れ、とこそは言はめと思ふも、をこがましけれど、言ひ遣る。 「今宵なむ物へ渡らむと思ふに、車暫し」 となむ言ひやりたれば、男、「あはれ、いづちにとか思ふらむ。往かむさまをだに見む。」と思ひて、今此處へ忍びて來ぬ。女待つとて端に居たり。月の明きに、泣く事限りなし。
  我が身かくかけ離れむと思ひきや月だに宿をすみ果つる世に 
と言ひて泣く程に、來れば、さりげなくて、うちそばむきて居たり。 

「車は牛たがひて、馬なむ侍る」 といへば、 「唯近き所なれば、車は所狹し。さらばその馬にても、夜の更けぬ前さきに」 と急げば、「いとあはれ。」と思へど、彼處には皆、朝にとおもひためれば、遁るべうもなければ、心苦しう思ひ思ひ、馬牽き出させて、簀子に寄せたれば、乘らむとて立ち出でたるを見れば、月のいと明きかげに、有樣いとさゝやかにて、髪はつやゝかにて、いともいと美しげにて、丈ばかりなり。男、手づから乘せて、此處彼處ひきつくらふに、いみじく心憂けれど、念じて物も言はず。馬に乘りたる姿、頭つき、いみじくをかしげなるを、「哀れ」と思ひて、 「送りに我も參らむ」 といふ。 

「唯こゝもとなる所なれば、敢へなむ。馬は只今返し奉らむ。その程は此處におはせ。見苦しき所なれば、人に見すべき所にも侍らず」 といへば、「さもあらむ」と思ひて、とまりて尻うち懸けて居たり。

この人は、供に人多くは無くて、昔より見馴れたる小舍人童一人を具して往ぬ。男の見つる程こそかくして念じつれ、門ひき出づるより、いみじく泣きて行くに、この童いみじくあはれに思ひて、このつかふ女をしるべにて、はるばるとさして行けば、 「唯こゝもと、と仰せられて、人も具せさせ給はで、かく遠くはいかに」 といふ。山里にて人も歩かねば、いと心細く思ひて泣き行くを、男も、あばれたる家に、唯一人ながめて、いとをかしげなりつる女ざまの、いと戀しく覺ゆれば、人やりならず、「いかに思ひいくらむ」と思ひ居たるに、やゝ久しくなり行けば、簀子に、足しもにさし下しながら寄り臥したり。 

この女は、いまだ夜中ならぬさきに往きつきぬ。見れば、いと小き家なり。この童、 「いかに、斯かる所にはおはしまさむずる」 と言ひて、「いと心苦し」と見居たり。女は、 「はや馬率て參りね。待ち給ふらむ」 と言へば、 「いづこにかとまらせ給ひぬるなど仰せ候はば、いかゞ申さむずる」 と言へば、泣く泣く、 「斯樣に申せ」 とて、  
  いづこにか送りはせしと人問はば心は行かぬなみだ川まで
といふを聽きて、童も泣く泣く馬に打乘りて、程もなく來著きぬ

(文の現代語訳)
男が新しい女を明日にもつれてこようとするので、女は自分が出て行くことを男に知らせるわけにもいかない。車を誰に借りたらよいか。男に送ってくれと言おうとは思うが、ずうずうしいようで気がひける。けれど、「今宵引越しをしようと思いますので、車をしばらく貸してください」と言ってやったところ、男は「ああ、どこにいくつもりなのか、せめて出て行くところを見送ろう」と思って、妻のところへ忍んでやって来た。女は車を待っている様子で、端のほうに座っていた。明るい月明かりの中で、しきりに泣いている。
  我が一身がこのようにここを離れることになろうとは思いませんでした、月さえいつまでもいつづけているというのに
こういいながら泣いているところに男がやってくると女はさりげない様子で、横を向いて座っていたのだった。

「車は牛の都合がつかないので、馬にしたよ」と男が言うと、「ほんの近いところですので、車は大げさです。ではその馬に乗って、夜が更けないうちにまいります」と急ぐ様子なので、「たいそうかわいそうだ」とは思うが、先方ではみな朝には来るつもりでいるので、どうすることもできない。心苦しく思いつつ、馬を引き出させて、簀子に寄せると、女はそれに乗ろうと立ち上がる。その様子を見ると、月がたいそう明るいなかに、華奢な体で、髪はつややかでたいそう美しく、背丈ほどの長さがある。男が、自分の手で女を馬に乗せてやり、あちこち衣装の乱れをとりつくろってやると、女はたいそう悲しい気持ちになったが、我慢して何も言わない。その馬に乗った姿や頭の様子がたいそう美しいので、男は心を動かされ、「わたしも一緒に送って行こう」と言う。

「ほんの近いところですので、送ってくださらなくて結構です。馬はすぐにお返しします。その間ここで待っていてください。わたしの行く所は見苦しいところですので、人に見せるようなところではありません」と女が言うと、男は「それもそうだ」と思い、そのままそこにとどまって、腰を下ろして座っていたのだった。

女には、仕えるものが少なかったので、昔から親しく召し使っていた小舍人童一人を伴っていった。男に見られていた間は我慢していたが、門を出て男が見えなくなると、たいそう泣きながら行ったのだった。お供の童は、その様子を気の毒だと思いながら、女が昔召し使っていた者の家をめざして、はるばる向かっていった。童は不審に思って、「すぐそことおっしゃられながら、大したお供も連れず、こんなに遠くまで来るとはどうしたわけですか」と言う。山里で人の歩く気配もないので、女は心細く思いつつ泣きながら行ったのだが,一方男のほうも、荒れ果てた家にただ一人物思いにふけりつつ、元の妻のたいそう美しいさまが恋しく思われので、心から「自分のことをどう思ったことだろうか」と思っていたのだったが、やや時間が過ぎたので、簀子に足を下ろしながら、ものに寄りかかって寝たのだった。

女のほうは、夜中になる前に目的地に到着した。見れば小さな家である。お供の童はそれを見て、「なんと、こんなみすぼらしいところに身を寄せられるのですか」と言いつつ、気の毒そうに見ている。女が、「もう馬を連れて行きなさい、ご主人が待っておられるでしょう」と言うと、童は、「あなたの行き先がどこだったのか、そう聞かれましたら、どのようにお答えしたらよいでしょう」と言うので、女は泣く泣く、「このように言いなさい」と言って、歌を読んだ。
  どこに送って言ったかと人に聞かれたら、心が晴れない涙川までと答えなさい
その言葉を聞いた童は、泣く泣く馬に乗って、程なく主人のもとに帰ってきたのだった。

(解説と鑑賞)
男がいよいよ新しい女を家に迎えることにともない、元の妻が家を出て行くことになる。そして妻が引越しのために牛車を貸してほしいというので、牛車の代わりに馬を引いて、妻の様子を見にやってくる。文章からは、別のところからわざわざ妻のところにかけつけたというふうに読み取れるが、それは、男が新しい女の家に入り浸っていて、そこから元の妻のいるところ、つまり自分の持ち家にやってきたという意味だと考えられる。

元の妻は、涙が流れてしようがないところを、夫の目をはばかり、涙を押さえながら家を出る。お供は小舎人童一人というさびしさだ。その様子を見送った男は、別れ際の妻の姿が思いがけず美しく、またその身の上が哀れに思われて、妻の引越しが一段落つくまでの間、家にとどまって様子を見届けようとする。

妻のほうは、たいそう長い道のりを進んで、夜中になる前にかろうじて目的の家に着いた。そこは、たいそう小さくてみすぼらしい小屋であった。童が馬を引いて主人の所に帰るについて、女は自分の気持ちを込めた一種の歌を歌って童に託す。







コメントする

アーカイブ