(仕立屋のなせる業)
聖職者の格好をした大きな人物の前で一人の若い女性が跪き、その周辺にも沢山の人々が跪いたりお祈りを捧げたりしている。この作品をゴヤは、「仕立屋のなせる業」と題したわけだが、その訳は、人々はこの人物の徳性にではなく、その見せかけに反応しているということを現している。つまり、仕立屋の仕立てた服装のおかげで、人々がありがたく跪いているのである、と言いたいわけであろう。
権威を相対化して、場合によっては引き摺り下ろそうとするのは、ゴヤの本質的な態度振舞であった。それがこの絵にも、強烈な形であらわれている。僧侶らしき人物は、衣装の醸し出す権威に加えて、大袈裟な身振りで人々を圧倒しようとしているが、それは自分の無能さを、大袈裟な仕草で包み隠そうとする浅墓な企みだ、とゴヤは言っているかのようである。
なお、人々の外に、僧侶の周りに浮かんでいる形象は、理性の眠りに出てくる怪物同様、非理性をイメージしたものだと考えられる。
(何てありがたいお説教)
上の作品では、聖職者は大袈裟な衣装をまとって出てきたが、この作品の中では、聖職者はオウムになっている。オウムと言えば、人の物まねがうまいことが売り物だ。この絵の中のオウムも、おそらく、聖職者たちの物まねをして、それを聴衆に語っているのであろう。あるいは、説教者たちというのは、そもそも人の受け要りをするのが得意なことから、オウムとなんら変わることはないのだ、と言っているようでもある。
オウムが乗っている説教台の足もとには、大勢の人々が跪き、口をポカンとあけながら、ありがたい説教に聞き入っている。
受け売りの説教と、それをありがたく拝聴する人々。この絵には、スペインにおける信仰のあり方に対する、ゴヤの痛烈な批判が込められていると言えよう。
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