日本の夜と霧:大島渚

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大島渚の1960年の映画「日本の夜と霧」は、所謂60年安保をテーマにした作品である。日米安保条約の改定を巡って、この年大規模な反対運動がおきた。この映画は、その反対運動にかかわった人々を批判的な視点から描いたものである。大島の政治的な面が強くあらわれた作品だ。

新日米安保条約が大騒ぎの末効力発生したのが1960年6月23日、この映画は同年の10月9日に公開されているから、安保騒動が終ってから半年もたっていない。観客にとっては非常にホットな話題を扱った映画だったわけだ。だが、どういう理由からか、配給会社の松竹はこの映画をたった三日間公開しただけで、大島には無断で打ち切ってしまった。そのことに怒った大島は、翌年松竹をやめた。

松竹が公開を中止した理由についてはいろいろと憶測された。高度に政治的な話題を取り上げたことで、時の権力者の怒りを買うことを恐れたのではないかとも言われた。しかしこの映画は、権力の批判は一切していない。逆に、安保反対運動にかかわった学生や左翼知識人たちを批判している。批判と言うより、罵倒に近い。だから松竹が政治的な理由でこの映画を中止させたとは考えにくい。そんなふうに考えるのは、この映画の贔屓倒しなのではないか。

実際、この映画は、ホットな話題性を持っていた公開当時はともかく、今見ると、面白くもなんともないのである。当時でさえ、これを面白いと思った観客はほとんどいなかったのではないか。その理由は、この映画のグロテスクなまでの観念性である。観念性と言うとカッコよく聞こえるが、要するに空理空論の上に立った青臭い映画だということである。

この映画は、60年安保にかかわった様々な人々(学生とインテリ)を一堂に集め(結婚式場において)、その連中の間で討論をさせるというものである。その討論というのは、主にインテリの間で展開されるもので、身近な60年安保問題と並んで、過去の左翼の政治運動についての総括をめぐる議論もある。これが大体二つのグループに分かれ、運動の主流派(共産党系をさしている)と反主流派が互いに相手を罵る。これらを旧世代とすれば、新世代は60年安保の中核になった学生たちだ。学生たちは学生たちで、内部対立も含んでいるが、旧世代に対しては一致して嫌悪感を抱いている。といった具合で、安保をめぐる当時の政治勢力の布置のようなものが浮かび上がってくる仕掛にもなっている。

とにかく映画の始まりから終わりまで、同じ場面(結婚式の場)での同じメンバーの間の罵りあいが延々と続く。その合間に、回想と言う形で過去のイメージも現れて来るが、メインはあくまでも結婚式場での罵りあいにある。こんなものを二時間近くにわたって延々と見せられるわけだから、おそらく当時の観客の殆どは退屈したに違いない。いわんや今日の人間においてをやである。

筋書きがパッとしないことに加えて、俳優たちの演技もパッとしない。中学生の学芸会並みの演技だ。セリフを言い淀んだり、あるいは忘れてしまったりと思わせる場面が多く出てくる。おそらく、ぶっつけ本番そのままで、すこしぐらいの失敗は無視するような態度で作ったのだろう。粗忽なところが目立つ。俳優の中でまともなのは、ベテランの芥川比呂志のほか、佐藤慶くらいだ。ほかの俳優は、大根に毛が生えたようなできだ。桑野みゆきと津川雅彦などは、まさに大根そのものだ。いくらなんでも、こんな大根芸を見せられては、観客も席を立ちたくなるというものだろう。この映画が三日で公開中止に追い込まれた理由は、案外そんなところにあると思われる。

それにしても大島は、どういうつもりでこんな青臭い映画を作ったのか。彼なりに思い入れの強い映画だということらしいので、その意図がいまひとつよくわからぬ。

なお、映画の題名にある「夜と霧」とは、ナチスによるユダヤ人虐殺を象徴する言葉として広く流布したものだ。この言葉自身の由来は、抹殺対象とされた非ドイツ人を連行することを命じたナチスの命令を著す名称だが、ナチスの強制収容所を取り上げたアラン・レネ監督のドキュメンタリー映画の題名になったほか、ヴィクトル・フランクルの有名な収容所体験記「強制収容所における一心理学者の体験」の邦訳版の題名にも使われた。これを何故大島が、この映画の題名に使用したのか、よくわからない。







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