古典主義時代における狂気の分類:フーコー「狂気の歴史」

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中世からルネサンスにかけての時代、狂気と正気とは截然と区別されていたわけではなかった。両者の間に対立がないわけではなかったが、それは互いに排除しあう絶対的な対立ではなく、相互に交じり合うような相対的な対立だった。正気の人々は、狂人たちを自分たちとは無縁のものとして排除するのではなく、あちらの世界からやって来た、そういう意味ではこちらの世界にやってくるべく神に選ばれた存在だった。それが、両者の間に絶対的な対立がもたらされ、狂気が排除されるべきものとされるようになるについては、デカルトに代表されるような理性についての見方の大転換があった、とフーコーは考えるのだ。

デカルトが「思考する私」をあらゆる認識の基礎としたとき、正気と狂気との、理性と非理性との埋めがたい分裂が忍び込んできた。「思考する私」とは、正気の私以外ではありえない。なぜなら「思考している私、その私が狂うことはありえないからである」(「狂気の歴史」第一部第二章、田村俶訳)。確実な思考とは明晰判明な意識に支えられたものなのであり、明晰さを欠く意識、つまり狂気の意識は理性的な思考をもたらさない。理性と思考とは、別の事柄のように見えて、その実同じ事柄を別の言葉で言い換えただけのものなのである。

それ故、思考している私は、理性的な人間として思考しているのであり、非理性的な人間、つまり狂人として思考することはありえない、という真理が現れる。かくして、「以後、狂気は追放されるのである」(同上)

追放された狂気は、とりあえずは理性に対立する非理性という資格において捉えられたわけだが、この捉え方は大雑把なものであって、明確に分節化されてはいない。狂人を表す言葉として、「気違い(アンサンセ)」、「発狂者(デマンス)」、「精神異常者(エスプリ・アリエネ)」、「完全に狂った人」などが用いられてはいたが、それらは互いに明確に区分されていたわけではないのだ。とにかく、理性とは異なるもの=非理性としての属性が狂気のすべてだったのであり、その属性をさらに細かく分節化しようとする意思は、古典主義時代においては強くは働かなかった。それが強く働くようになるのは、古典主義時代が終了した後、狂気が精神医学の対象になってからのことである。

この辺の事情をフーコーは、「古典主義時代の狂人は、その個別性の徴表を失ってしまい、非理性という総括的な理解のうちに解消される」(第一部第四章)というように表現している。

とはいえ、狂気についての分節化の努力が、古典主義の時代に全く行われなかったということではない。というのも、狂人のほとんどは他の不道徳な連中と一からげにされて施療院に監禁された中で、一部の本格的な狂人には、医学的な措置が行われてもいたからである。そういう狂人たちは、フランスの場合なら、男はビセートル、女はラ・サルペトリエールへ、イギリスの場合にはロンドンのベツレヘム病院に収容され、それぞれ医学的な措置が施された。そのような医学的な実践のなかから、狂気についての分類が始まったのである。

古典主義時代は、分類の時代であった。さまざまな学問領域に渡って、それぞれの研究対象が分類の対象となった。この時代の知は博物学という形で体系化されたのだが、博物学とは分類の上に成り立った学問であった。分類というものは、際限なく拡大していくことができるので、博物学のような体系的な学問を形成する上では都合がよかったのである。この類の精神をもっともよく体現していたのはリンネである。ある意味、古典主義時代はリンネに代表されるような分類の世紀だったのである。

フーコーは、古典主義時代の学者によるさまざまな狂気の分類を紹介している(同書、第二部第一章)。まずは、プラッターの分類。これは1609年の「医療実務についての考察」にもとづくもので、古典主義時代の始まりにいささか先立つ時代のものだが、狂気を四つの類型、「心の虚弱、心の激昂、心の離遠、心の疲労」に分類している。このような分類方法は、その後の世代の学者にも多かれ少なかれ引き継がれたのである。

ボワシェ・ド・ソヴァージュの1763年の書物「組織的疾病分類学」は、狂気を、やはり四つの類型に分類している。すなわち、「幻覚、これは想像力を乱すもの」、「奇矯、これは欲望を乱すもの」、「妄想、これは判断を乱すもの」、「異常な狂気」である。また、分類の大御所たるリンネは、やはり1763年の書物「病気の種類」のなかで、狂気(精神病)を二つの類型に大分類している。すなわち、「観念に関するもの」と「想像力に関するもの」である。

これらの分類は、それぞれの狂気の外面的な特徴に基づいたものという面が強く、病気の原因なり症状の医学的な観察なりに裏付けられていない感がある、とフーコーは批判する。これらの病気が今日の精神病理学の知見と大きくずれているのは、そのためだと言うのである。そこで、一応彼らの分類から距離を置いて、今日的な分類基準にあてはめて、この時代の分類を考え直すとどのようなことがわかるか、フーコーなりに検討している。

フーコーは、今日の精神医学にもとづく精神疾患の分類(統合失調症と躁鬱病に大別される精神疾患、およびノイローゼなどと称される神経障害)の基準を、古典主義時代における言葉を使って適用するとどうなるかを考察する。それによれば、古典主義時代は、狂気の類型を、つぎの三つとして捉えていたという。すなわち、「痴呆のグループ」、「躁病と憂鬱病」、「ヒステリーとヒポコンデリー」の三つである。古典主義時代における、狂気にかんする説明は、この三つのいづれかについての説明と一致するとフーコーは言うのである。このうち、「痴呆のグループ」には、今日謂うところの統合失調症(分裂病)のほかに、暗愚、間抜け、愚頓、馬鹿なども含まれるというから、かなり広い範囲をカバーする概念であったわけで、また、今日精神疾患として分類されないようなものまで含んでいることがわかる。

躁病とメランコリーについては、これを体液との関連で説明するギリシャ以来の伝統が、古典主義時代にも影響を及ぼしていて、今日的な意味での精神疾患としては捉えられていないとフーコーは言っている。この両者のうち、憂鬱病=メランコリーは、おそらく古典主義時代に入って本格的に発症し始めたと思われ、その背景には、プロテスタンティズムの峻厳な宗教意識が作用していると考えられるのだが、フーコーはそれについては言及していない。

次にヒステリーとヒポコンデリーについては、それらが神経障害の現れであり、真性の精神病としての統合失調症やうつ病とは根本的に異なるという意識が古典主義時代にはなかったとフーコーは指摘している。そしてその理由として、古典主義時代の疾病の分類基準が、病因や症状についての科学的な観察にではなく、道徳的な基準によっていたということをあげている。これらの狂気は、医学的な関心の対象というより、道徳的な断罪の対象にとどまっていると言うのである。たとえば、「苦しくてつらい生活に慣れていると女性はヒステリーに陥りにくいが、安逸無為な、贅沢でたるんだ暮らしを送っていると、きわめてヒステリーにかかりやすい」というわけである。

ここでわれわれは、古典主義時代の狂気がそもそも、医学的な措置の対象としてではなく、道徳的な非難の矛先として登場してきたということに、もう一度目を向ける必要があろう。この時代の狂気は、根本的には道徳的な非難に値するものとして、社会から排除されることから歩みを始めた。人々が、狂人を監禁するのは、医学的な診断に基づいてではなく、ある種の直感にしたがってのことであった。その直感とは道徳的な判断に支えられたものだった。かくして、「狂気が具体的人間と結びつきたいと望むときには、狂気経験は道徳と出会うわけである」(同書、第二部第一章)

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