伊藤若冲の動植綵絵

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伊藤若冲は、馬歯四十の年(宝暦五年<1755>)、京都錦小路に構えていた青物問屋の家業を弟に譲って画業に専念することになった。それに先立つこと三年前の宝暦二年に、相国寺の僧大典禅師と知己となり、若冲の号を授かった。若冲の絵が本格化するのは、その頃からである。その若冲にとって、画業のマイルストーンとなったのが、「動植綵絵」シリーズである。このシリーズは、宝暦八年ころから製作に着手され、十数年かけて三十幅の絵として結実した。若冲はこの三十幅に、釈迦三尊の像三幅を加えた三十三幅の絵を、馬歯五十の年(明和二年に二十四幅)とその五年後の明和七年(残りの六幅)の二度にわけて、相国寺に寄贈した。そのことでこれらの絵が、未来永劫に残ることを期待したのだと言われる。その期待通り、これらの絵は、徳川時代を通じて相国寺で保管された後、明治時代に皇室に寄贈され、いまでは皇室の蔵するところである。大事に秘蔵されてきたために、いまだに鮮度の高い状態を保っている。

三十幅の絵が、どのような順序で製作されたか、全容はわかっていない。ただ、相国寺への寄贈が明和二年と七年の二度に分かれていること、また製作途上に、初期のものと思われる十二幅を大典禅師に示し、大典がそれに対して、「藤景和画記」と題する批評文をしたためていること、また、一部の初期の絵には製作時期の記載があること、などにもとづいて、ある程度の推測が出来る。

十年間にわたる画業であるから、画法やテーマの処理の仕方などにある程度の変化を認めることが出来る。初期の絵では、鶏を中心にして、禽獣類が画面いっぱいに描かれているものが多く、色彩も比較的鮮やかである。それに対して最後に近くなって作られたものは、花を中心に植物を強調したものが多く、色彩は地味になっている。また、墨絵の手法を取り入れるなど、若冲後半期の画業に通じる要素も現れてくる、といった具合だ。

「動植綵絵」という名称は、動物と植物を色彩豊かに描いたもの、という意味合いである。その名称のとおり、ほとんどの絵は、植物を背景に、鶏を始めとしてさまざまな動物が描かれている。そんなところから若冲は花鳥画家とも呼ばれ、また鶏を好んで描いたところから鶏の画家とも言われる。

このサイトでは、「動植綵絵」三十幅のひとつひとつについて、鑑賞していきたい。





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