藤田真一「蕪村」

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俳人としての蕪村は、子規によって再評価されたということもあって、とかく子規の見方が蕪村鑑賞を制約してきたきらいがある。子規の見方と言うのは、これを単純化すれば写生ということになるので、蕪村も写生句の名人だったということになりがちだ。ところがそうではない、蕪村の俳句は写生句の枠には収まらぬ大きな広がりをもっていたと主張する人もいる。藤田真一もそうした一人だ。彼の著作「蕪村」は、蕪村の俳人としてのスケールの大きさとともに、画家としても一流の人物だったということを、丁寧に説明している。蕪村についてそれなりのイメージを結ばせてくれる一冊だ。

蕪村にはいろいろな楽しみ方がある、と藤田は言う。俳句について言っても、叙情性豊かな句もあれば、俳諧らしい洒落た遊び感覚の句もある。蕪村の俳諧趣味は画のほうにも現れていて、何人の追従をも許さぬ独自の世界を作り上げている。また、蕪村は本格的な学問をした形跡がないにもかかわらず、漢詩の素養もあったようで、馬堤曲のような漢詩をもじった文も作っている。要するに多才なのだ。

蕪村は、自分の本業は画であると考えていたようで、俳句はあくまでも遊びだった。遊びにしては念が入っていて、多くの弟子を抱えて一派をなした。芭蕉の弟子たちのように後世に名を残した大物はいなかったが、数だけは多かったようだ。

蕪村は芭蕉を理想とした。蕪村の時代に芭蕉の復興ブームが起きたというような事情もあるが、それ以前に、蕪村の芭蕉に対する強い親近感が働いていた。そんな蕪村の芭蕉へのこだわりを示す例を、藤田は二つあげている。

一つは、蕪村が「蕪村」を号したそのお披露目として作った次の句に、芭蕉への思いが込められているというもの。その句とは、  
  古庭に鶯啼きぬ日もすがら
というのであったが、これは芭蕉の句「古池や蛙飛び込む水の音」を踏まえているというのだ。「古池や」は、芭蕉にとって自分の句風を確立したことを示す記念碑的な句であった。その句を踏まえることで蕪村は、自分の句風が芭蕉を踏まえていることを主張している、と藤田は言うのである。しかも、蛙にせよ鶯にせよ、どちらも紀貫之の歌論を踏まえている。古今和歌集序に
  花に鳴く鶯、水にすむ蛙、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざる
とあるとおり、蛙と鶯とは古来歌を歌うものの代名詞として、日本の詩歌の伝統に深く根付いていたと言うのである。

もう一つは、「蕪村句集」の編集に、芭蕉への気配りが見えると言うもの。句集冬の部の最後、つまり全巻の末尾を蕪村はつぎの句で締めくくった、  
  芭蕉去りてそののちいまだ年くれず
この句には蕪村の芭蕉への敬慕がすなおに現れているといえるのだが、面白いのは、冬の部の最初の句にも、芭蕉への思いを重ねているということだ、その句とは
  みのむしのえたりかしこし初時雨
というものだが、これは芭蕉「猿蓑」の巻頭句
  初時雨猿も小蓑をほしげなり
を想起させる。つまり蕪村は、「句集」冬の部を芭蕉の「猿蓑」と対をなすような形で構成しているというのである。そのことで、自分の句集が芭蕉の代表作「猿蓑」のこだまのようなものだとアピールしているのであろう。

藤田が俳人蕪村の業績の中でもっとも高く評価するのは「春風馬堤曲」である。これは、安永六年(1777)に刊行した「夜半楽」という俳文集の一章をなすもので、発句や絶句、漢文書下ろしの文体を取り混ぜて、あるひとつの物語を展開すると言うものである。その物語と言うのは、馬堤を行く若い娘の視点から春爛漫を寿ぐと言う趣向のもので、全編明るい雰囲気に満ちている。「曲」とあるように、漢詩の一ジャンルである「楽府」を下敷きにした言葉遊びのような要素を持っている。楽府はもともとメロディに乗せて歌ったものであるから、いわば歌謡曲の歌詞のようなものである。

漢詩を材料にして言葉遊びをするのを狂詩というが、これに先鞭をつけたのは寝惚先生(後に蜀山人)こと大田南畝である。南畝が狂詩集「寝惚先生文集」を刊行したのは明和四年(1767)のことであるから、蕪村もこれに影響されたと思われる。蕪村の「馬堤曲」は、南畝の狂詩とはだいぶ趣が異なるが、滑稽の精神という点では通じ合うところがある。徳川時代の後半は、滑稽の精神が大いに栄えた時代だが、蕪村は南畝とともにその先駆者になったといえよう。

この本はまた、蕪村の画家としての業績にも触れている。蕪村は池大雅とならんで日本の文人画の双璧と称されるが、池大雅が本格的な南画を得意としたのに比べれば、俳諧趣味に満ちた画を描いた。その点で、とかく池大雅より下手に見られるが、それは皮相な見方だと言って、藤田は蕪村の絵の魅力を手ほどきしてくれるというわけなのである。





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