儀式:大島渚

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大島渚の1971年の作品「儀式」は、戦後日本を総括した映画だと言われたりもしたが、むしろ戦後まで生き延びていた戦前の古い日本が崩壊していく過程をゆっくりと描いた映画だと言った方がよい。「ゆっくり」というのは「自然に」というほどの意味で。要するに外圧によってではなく、惰性によって、腐敗するように滅びて行ったというような意味である。

この映画で描かれた古い日本というのは、家父長制に象徴されるような権威的な社会のことをさす。この映画でその権威を代表するのは鹿児島の旧家の家長ということになっている。この家長は、家内で絶対的な権力を振るう一方、社会的には名士として活躍もした。それが祟って、戦後の一時期は戦犯の咎で公職追放されもした。それでも彼は、自分というものを深く反省することがない。ただ、時代の変化が自分とは何かしっくりしないものをもたらしていると感じるのみだ。

この家父長の孫桜田満州男(河原崎健三)がこの映画の主人公だ。映画は基本的に満州男の視点から描かれる。満州男は、母親と二人で、命からがら満州を脱出し日本に戻ってきた後、一足先に日本へ戻っていた父の実家へ身を寄せる。だが父はすでに一年前に自殺していて、ちょうど一周忌の法要が営まれようとしているところだった。この映画は、この法要をはじめとして、次々と催される冠婚葬祭の儀式の場面をつなぎ合わせながら、戦後日本社会の変化と、戦前的なものの死滅の過程を描いていくというわけなのである。

大島は、映画の進行に一ひねりをいれて、所謂「倒置法」を採用している。冒頭は祖父の葬儀の場面だ。葬主である満州男のもとへ「テルミチシス、テルミチ」という不思議な電報が届く。そこで満州男は葬儀を中断し、この電報の発信地たる九州の離党へ赴くこととする。テルミチ(中村敦夫)のかつての恋人であった律子(賀来敦子)と共に。こうして映画は、九州へ向かう途上で満州男が回想するシーンが次々と展開されるという形をとる。その回想のシーンとは、ことごとく冠婚葬祭の儀式の記憶だった。

まずは、母親と共に父親の実家へ帰ってきた折のことが蘇ってくる。母親に向かって祖父(佐藤慶)がひどいことを言う。お前は満州でさんざん強姦されたのではないかというのだ。母親は悲しそうな顔で否定する。しかし祖父は信用しない。まるで娼婦のような扱い方で接する。それでも母親は恥を忍んで祖父の家に居続ける。というのも、満州男が祖父によって家の後継ぎとして期待されたからだ。

満州男の周りには、同じような年頃の三人の子どもがいた、一番の年長はテルミチ、彼は祖父に見込まれて養われているということになっている。律子と言う少女は満州男より三つ年下だ。彼女の母の節子(小山明子)は、もともと満州男の父の恋人だったのを祖父によって引き裂かれ、祖父の妾のような境遇になった女だ。この節子が後に、満州男の初恋の対象となる。もう一人忠という少年も祖父の孫であるが、その父親は祖父の妾の子だということになっている。とにかく、祖父を巡る人間関係は複雑極まるといった感じだ。

その後、母親の葬式、叔父(小松方正)の結婚式、満州男本人の花嫁不在の結婚式と続き、最後は九州の離島に着いた二人がテルミチの遺体を前にして死の儀式を行うところで終る。

この儀式の連続の中から、満州男の辛い過去や、他の三人の子どもたちとのかかわりなどが浮かび上がってくる。最大の見どころは、真っ裸で死んでいるテルミチの遺体の横で、律子が自死するところだ。満州男は彼女との結婚も考えているのだが、律子には満州男と自分とは兄妹だという疑念がある。自分の母親はかつて満州男の父親の恋人だったからだ。そんな彼女にとっては、テルミチは一緒に育った幼馴染だし、始めて体を許した相手でもある。どういうわけか人生に絶望しているらしい彼女は、テルミチの後を追って自死することを決意し、満州男の目の前で死んでいくのだ。その死に様がなかなか凝っている。自分の手足を自分で結わえつけた後で、毒薬を飲みこんで死ぬのである。これもまた究極の儀式ではあろう。

叔父の結婚式の場面では共産主義への嫌悪感が執拗に語られる。共産主義への嫌悪は戦後日本にとっての大きな呪いのようなものだったわけだが。この映画ではその嫌悪をロシアへの憎悪と結びつけて語っている。ロシアは日本敗戦のどさくさにまぎれて日本人にひどいことをした。中でも満州から逃げ出そうとする日本人を標的に、男は拉致して奴隷とし、女はことごとく強姦した。だからロシア人は日本にとっては不倶戴天の敵である。そのロシア人を鬼に仕立てたのはとりもなおさず共産主義なのだ、というのである。この辺は、あるいは戦後の多くの日本人の偽らぬ気持だったのだと思われる。

この結婚式の席で花嫁がインターナショナルの歌を歌いだす。彼女は共産党シンパである叔父の嫁に相応しく共産主義にかぶれているようなのだ。この歌ですっかりしらけた場をとりなすように、律子が芸者ワルツを歌いだす。日本の女はインターナショナルより、こっちの方がよほど性にあっているといわんばかりに。

映画の中では、満州男が地面に耳をあてて何かを聞こうとする場面が二度出てくる。一度目は少年時代の満州男が、他の子どもたちの不思議そうな視線を浴びながら地面に耳をあてる。これは、満州から逃げてくる途中、まだ生きていた弟を生き埋めにした記憶がなさしめることで、彼はそうすることで地面の下から漏れ出てくる弟の声を聞こうとしたのだということが、あとでわかる。二度目はラストシーンで、いまや中年になった満州男が、河原の砂に耳をあてる。だが、そうすることで何を彼が聞こうとしたかは明らかにされない。不分明なままに映画は終わってしまうのだ。

あたかも、戦前の日本が自然と滅びて行ったように、かつて地面の下から聞こえてきたあの音も、自然と響かなくなったとでも言いたげなように。

なお、大島はこの映画のテルミチ役に、三島由紀夫を採用しようと考えたこともあったそうだ。







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