フーコー「臨床医学の誕生」

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フーコーは「狂気の歴史」において、狂気が社会への統合から排除を経て治療の対象となってゆく変化の過程を描いたわけだが、その狂気の歴史における近代的な治療の確立すなわち精神医学の誕生に、身体の病気の歴史においてほぼ対応するものとして臨床医学の誕生を取り上げた。「臨床医学の誕生」という書物は、まさしくその課題に応えるために書かれたわけである。

そんなわけだから、「臨床医学の誕生」と「狂気の歴史」は、共通の問題意識に立っているところが多い。その最たるものは、狂気といい身体の病といい、時代を超えて同じ現象であるはずのものが、なぜ時代を異にすると異なって見えていたのか、というものである。その原因をフーコーは、まなざしの変化に求める。人間のまなざしが変化することによって、その対応物である現象も変化して見えるようになる、というのである。

このように、世界の見え方を人間のまなざしとの相関関係のなかで論じ、どんな見え方にも、それがそう見えるようになった起点がある、とする考え方は、ニーチェの「系譜学」を踏まえたものである。フーコーの場合には、「系譜学」という言葉のかわりに「考古学」という言葉を好んで使う。この言葉には、いま我々が当然と思っている世界の見え方には、ある特定の起点があり、その起点を探求するのが「考古学」なのだ、という意味合いがある。そんなことからフーコーは、「臨床医学の誕生」に「医学的まなざしの考古学」という副題をつけたわけである。

一方、「狂気の歴史」と「臨床医学の誕生」には、アプローチの仕方にかなりな違いもある。「狂気の歴史」においては、狂気が、17世紀に確立した近代的理性との関係において、理性に対する非理性として、排除の対象として、ネガティブなかたちで再構成される過程をたどり、狂気の社会的な位相というものに焦点をあてていた。したがってその叙述は、社会との相関を考慮に入れた、狂気にとっては外在的な条件が中心となり、狂気についての内在的な分析、たとえば狂気の本質であるとか、狂気の治療法であるとか、については二次的な取り扱いしか受けていなかった。「狂気の歴史」とは言っても、病気としての狂気の歴史というよりは、社会的な現象としての狂気の歴史的考察といったものだったのである。

ところが、「臨床医学の誕生」においては、病は、その社会的な位相ではなく、内在的な展開のほうに焦点が当てられている。ここでは、病の持つ社会的な意義というよりも、病そのものの本質とかそれの治療法とかが主な論題となる。それゆえ、記述の仕方もかなり異なる。「狂気の歴史」での記述は、狂気にとっては外在的な条件が中心となるから、医学的・科学的な記述ではなく、哲学的・思弁的な記述に傾く。これに対して「臨床医学の誕生」における記述は、医学的・科学的なものである。

フーコーは、自分自身が精神医学者として出発したということもあり、医学的な領域に通じていたのであろう。この書の中では、そうした医学上の知識が惜しみもなく披露されている。我々医学の素人にとっては、そうした医学的な議論は煩瑣なものに映るのであるが、したがって哲学的な議論としては面白いとは感じないのであるが。これを書いているフーコー本人としては、嬉々として書いているといった趣が伝わってくる。

そんなわけで、この書物の大部分は、医学的なジャーゴンを駆使しての煩瑣な議論で占められているのであるが、そうした枝葉末節にわたる部分をとりあえず脇へおいて、本題を摘出すると次のようになるだろう。

いま我々が医学の対象として考えている諸々の病は、それ自身としては大昔から存在してきたのであるが、それがいま見えるような形で見えるようになったのは、そんなに遠い昔のことではない。それは、19世紀初頭の数年の間に生じた事態なのである。この数年の間に、病を見る我々の見方が根本的に変わった。それは病を見る我々のまなざしに変化が生じた結果である。その結果、我々はもろもろの病をいま見るようなかたちで見るようになった、というのである。

フーコーは、この病を見るまなざしの変化について、「序」のなかで取り上げている。フーコーは、ヒステリーの治療の過程で見られた粘膜剥離についての、18世紀なかばのポンムの記述を、それから百年後のペールによる記述と対比させて、その間にどのような変化が認められるかについて注目した。ポンムは「水浸しにした羊皮紙の断片のような、粘膜の切れ端が・・・軽い痛みを伴って剥離し、毎日、尿とともに排泄された」(「臨床医学の誕生」序、神谷美恵子訳)と記述しているのであるが、ペールの場合には、その記述はもっと客観的で、我々の時代の医師とほとんど変わりはない。というのも、現代の医師は粘膜を記述するのに、羊皮紙との連想を持ち出すようなことはしないで、色彩や形態といった粘膜の物理的・客観的な特徴を記すだろうからというわけである。

この記述の違いは、まなざしの変化を反映しているわけであるが、その変化が最終的に生じたのは19世紀初頭のこととして、それは一気に生じたわけではなかった。フーコーは、この変化のプロセスを二段階に分けて説明している。第一段階は古典主義時代までの「種の医学」から臨床医学の第一段階たる「症状の医学」への転換、第二段階は「症状の医学」から、「組織の医学」つまり解剖学的臨床医学への転換である。最初の転換は18世紀の末、次の転換は19世紀の初頭に起こった。

この三種類の医学についてフーコーは詳細な医学的議論を展開しているわけだが、ここでは枝葉末節を取り除き、根幹のところを確認しておく。

まず、種の医学。これは分類の医学といってもよい。要するに病気を体系的に分類することを主な関心事としている医学だ。病気は巨大な体系図の中のいずこかに分類される。分類の基準は、どちらかというと恣意的なものである。ここでは病気の本質よりも、体系の中での病気の位置づけこそが問題なのだ。だから、病気と病人とは外面的な関係にとどまる。病人とは病気が発症する範例に過ぎないのであって、医学にとっては本質的な重要性は持たないのだ。病人の治療ではなく、病気そのものの治癒、それが主な関心事になる。病人と病気とはただ外在的にかかわりあうだけなのだ。そのかかわりのなかで、医学の関心は、病人ではなく、病気に向けられている、というわけである。

こうした見方は、同時代における狂気と狂人との関係にも当てはまるだろう。古典主義時代には、狂気についても熱心な分類が試みられたが、それは狂人の治療を目的としたものというよりは、狂気についての深い理解を目的としたものと言ってよかった。狂人は、基本的には社会から排除された上で、放任されていたわけだから、彼らを医学的に治療しようなどという熱意は、その時代には存在しなかったのである。古典主義時代における、病人と病との関係も、それほど露骨とはいえないまでも、同じような関連にあったわけである。

次に、症状の医学。この段階になると、病は、分類上の体系に根拠をもった実体としての存在ではなくなり、個々の症状に還元される。病というものは、症状という形であらわれる現象の総体をさすのであり、その背後に病の実体なるものを想定する必要はない、ということになる。この第一の転換によって、病は実体としての存在から症状という現象に変化した。この変化によって、病人の捉え方にも一定の変化が起こる。種の医学では、病人は病が発現する媒体のようなものとして二義的な取り扱いしか受けてこなかったのであるが、症状の医学では、症状の起こっている場の主体という位置づけに高まるのである。とは言っても、病人は一人の人間として捉えられるにはまだ至っていない。そうなるのは、次の段階である「組織の医学」においてである。

組織の医学は、解剖学的な臨床医学と言い換えることができる。その言い換えのとおり、この医学は解剖によって支えられている。解剖によって、組織の異変こそが病の本態だということがわかってくる。これは現代の医学にまで通じる考え方である。しかして解剖は、人間の死体を対象とすることで、人間についての医学的な見方に死の視点を持ち込んだ、とフーコーは言う。死の視点が持ち込まれることで、人間と病とのかかわりが、それまでとは違った見方で見られるようになる。まなざしに決定的な変化が生じるのだ。この変化したまなざしが捉えるのは、人間と病との深いかかわりなのだ。

こうして、臨床医学に死の視点が持ち込まれることで、医学のあり方はきわめて人間的なものになっていった。そのプロセスをフーコーは、狂気におけるパラダイムの変換と対照させながら、次のように語っている。

「『非理性』の経験から、あらゆる心理学と、心理学の可能性そのものが生まれた。医学的考察の中に死を統合することから、個人の科学と自称する医学が生まれた。さらに一般的にいえば、現代文化における個性の経験は、死の経験にむすびついている」(同上、結論)

医学はそもそも人間を病から救い、究極的には死から遠ざけることを使命としているわけだから、死は当然医学にとっての重要な関心事である。我々現代人は例外なくそう思っている。しかし、我々現代人の祖先たちがそう思うようになったのは、そんなに遠い昔のことではないのだ。フーコーによれば、医学にとって死は、きわめて近い昔に視野に入ってきた事柄なのである。

関連サイト:知の快楽  






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