審判:オーソン・ウェルズ

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オーソン・ウェルズ(Orson Wells )の映画「審判( The trial )」は、フランツ・カフカの小説「審判( Der Prozeß )」の映画化である。この小説は20世紀文学最高傑作のひとつとしての評価が高いので、多くの人が読んだと思われる。まして映画化された1963年当時には、カフカを読むことが大流行していたので、これを映画化するには、かなりのプレッシャーがあったに違いない。原作にあまりに忠実すぎると、映画としての面白みが阻害されるだろうし、かといって原作に手を入れすぎると、これはカフカではないと批判を浴びせかけられることにもなる。オーソン・ウェルズは、映画作りの天才と言われるだけあって、このディレンマをうまく乗り越えている。原作になるべく忠実でありながら、映画としての面白さも十分に実現する、というような離れ業をなしとげている、と言ってよい。

カフカの文学は、不条理の世界或は世界の不条理を描いたと言われる。それは、ある日突然羽虫になった自分を見出した男の運命(変身)とか、仕事の依頼主からの指示を待ち続けて永遠に時間を浪費する測量技師の話(城)とか、常軌を逸した物語の世界だと言える。この「審判」もやはりそうした、常軌を逸した不条理を描いた作品である。主人公のヨーゼフ・Kが、ある日突然現れた侵入者によって逮捕され、人民裁判を思わせるような奇妙な手続きを経た後に、自分の罪状も知らされないまま有罪の宣告を下され、二人の男によって処刑されるという、実にわけのわからぬ、恐ろしい話である。そのわけのわからぬ恐ろしさを、カフカは乾いた文体で淡々と描いていくのだが、ウェルズは映像を駆使して、その恐ろしさをシュールな形で視覚的に表現する。

シュールな映像処理の卓抜さがもっともよく発揮されているのは、ヨーゼフ・Kが画家を訪ねるシーンだ。画家は鳥籠のような部屋に住んでいるが、それは大勢の女の子たちの干渉から身を守るためだ。Kもこの女の子達から追い掛け回される。彼女らの追跡から逃れる為にKが狭い空間の中を逃げ回る。そのシーンが卓抜だ。また、巨大な法廷のなかで、Kが訴追を受ける場面は、人民裁判を思わせるようで、グロテスクな雰囲気がよく出ている。このどちらのシーンとも、原作のイメージを視覚的に表現しなおしたものだ。

一方、原作に手を加えた部分もある。この小説は、印象的なラストシーンで有名だ。成功した長篇小説にはすぐれたラストシーンを持つものが多いが、この小説のラストシーンは、小説の歴史上最高級の出来栄えである。それは、ヨーゼフ・Kの処刑の場面だ。結局自分がどんな罪状で告発されているのか、それさえ知らされないままKは二人の男に連行され、ナイフで首を切られて死ぬ。そのラストシーンの最後の言葉、「犬のようだとKは言った、恥辱だけが生き残っていくようだった」は、世界の小説史上もっとも有名になったものだ。この部分をウェルズは、大胆に変更している。Kは死刑執行人たちによって巨大な穴倉に突き落とされた後に、頭の上からダイナマイトを投げ入れられ、爆殺されるのである。

もうひとつ、原作には「掟の門」という話が出てきて、かなり重要な意義を持たされているが、これが映画では省かれている。この話は、自分の運命を自分で開けない人間の不運をテーマにしたものなのだが、あまりに形而上学的で、映画にはなじめないとウェルズは考えたのだろう。そのかわりに、Kを含めて大勢の被告たちが、自分の運命が開けるのをいつまでも待ち続けると言うシーンに切り替わっている。彼等は、Kを含めて、自分がどんな罪状で告発されているかを知らないばかりか、いつ、どんな判決を言い渡されるか、不安のうちに待ち続けるばかりなのである。Kはそれに耐え切れないで、自分で破滅を引き寄せる。つまり、自分から進んで処刑されるのである。

ヨーゼフ・Kを演じたアンソニー・パーキンス( Anthony Perkins )は、はまり役だったといえる。彼はヒッチコックの「サイコ」にも出演しているのだが、こうしたサイコな役が似合う。彼自身、サイコな雰囲気を漂わせてもいる。パーキンスの相手役を務めた女優たちも、みな個性的な面々だ。ビュルストナー女史を演じたジャンヌ・モロー( Jeanne Moreau )は妖艶で不気味な雰囲気に満ちていたし、レニを演じたロミー・シュナイダー( Romy Schneider )は好色な感じがよく出ていた。ヒルダを演じたエルザ・マルティネリ( Elsa Martinelli )は、もっとキュートな感じの女優なのだが、この映画の中では、不安な感情を抱える中年女性を演じていた。

オーソン・ウェルズ自身は弁護士を演じていた。この弁護士は、原作のなかではあまり大きなウェイトを占めていないが、映画のなかでは結構存在感がある。ウェルズが自分自身の存在感を強調する為に、この弁護士に必要以上に大きな役割をさせたわけであろう。この映画の時点でのウェルズは、40歳代半ばだったが、初老の男に見える。「市民ケーン」のときと同様、メーキャップを施したと思われる。

カフカの原作をどう解釈すべきかについては、いまだに論争がある。いずれにせよ、ある一定の枠組みにもとづいて整然と解釈しきれるようなものではない。その雑然としたカフカの世界を、なるべく雑然としたままに、ということは原作の雰囲気を重んじる形で、映像の世界に移し変えたい。それがこの映画を作るに当たっての、ウェルズの姿勢だったようだ。







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