永積安明「平家物語を読む」

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永積安明の「平家物語を読む」は、岩波ジュニア新書向けに書かれたこともあって、非常にわかりやすい。忠盛以下十人の登場人物について、それぞれの生き方を取り上げてゆくことで、彼等を中心にして物語が進んでいくところが時間軸に沿って明かにされてゆくし、また彼等が互いに関りあうさまが語られることで、物語が空間的な広がりを以て展開してゆくさまが見えてくる。これは個々の登場人物に焦点を当てる方法の利点と言えるもので、物語を理解するに当たってはもっともわかりやすいものだ。

登場人物の中で最もユニークなのは祇王と仏御前だ。彼女らは時代に咲いた徒花のような存在で、他の登場人物と比べて物語の進行へのかかわりが薄い。彼女らが登場せずとも、平家物語の価値が低まると言うこともない。人物そのものの必然性が薄いのに比例して、彼女らがこの壮大な物語に登場すべき必然性にも欠けるのである。実際、平家物語の古い本には、彼女らの登場する一段を欠いたものが多い。そのことを根拠にして永積は、この部分は、もともとは(原「平家物語」には)存在せず、あとになって付け加えられたのであろうと推測する。

同じようなことは、物語末尾の「灌頂の巻」にも言えることで、これもあとで付け加えられたのだろうと永積は言う。その根拠は、平家物語が、全体として男性的な文体で(漢文調で)書かれているのに対して、これらが女性的な(和文の)文体で書かれていることだという。そう言われれば、平家物語というのは所謂和漢混交文の元祖と言うべきもので、したがって非常に男性的な感じがするのに対して、祇王・仏御前の一段や灌頂の巻は王朝風の和文を思わせる文体で書かれており、その分、女性的な感じがする。永積の説には説得力があると言えよう。

永積によれば、平家物語はもともと、実録的・年代記的な物語であった。しかしそれが琵琶法師によって普及されてゆく過程で、次第に詠嘆的・情緒的な表現に傾いていった。その過程で、物語本分にも、詠嘆的・情緒的な要素が紛れ込むようになった。祇王・仏御前の部分はその最たるもので、恐らく別の形で語られていたものが、ある時期平家物語の中に紛れ込み、今日「岩波古典体系」本に見られるような形になった、というわけである。

「灌頂の巻」も恐らく同じような過程を経て、あとから平家物語に加わったのだろうと永積は言う。「古い『平家物語』によると、壇ノ浦で敗れた平家の一門が、あるいは入水し、あるいは捕らえられ斬られ、清盛・重盛・惟盛と伝わる平家の正系を受けた生き残りの六代御前も、ついに源氏に斬られて、平家が完全に滅亡するところで、『それよりしてこそ、平家の子孫は、ながくたえにけれ』と結ばれて終わっている。そうして、このほうが治承・寿永の内乱という歴史的な事件の結末としては、よりふさわしいのであって、建礼門院の往生説話で結ばれる、いまの『平家物語』は古い形ではない」と言うのである。

この説に接して筆者に思い浮かんだのは、これが丸谷才一の説と正反対だということだった。丸谷は「女の救はれ」という一文の中で、「平家物語」のもっとも肝心な特徴は、それが女人成仏の思想を展開していることにあると喝破し、その裏づけとして「灌頂の巻」を援用していた。丸谷によれば、灌頂の巻は、建礼門院の成仏を通して女人成仏の思想を展開してみせたのであるということになり、平家物語全体は、この思想をもっとも明瞭に表現した「灌頂の巻」を念頭にしながら、それへの助走として展開されたものであるという。加之、平家物語の古いものほど「灌頂の巻」を最初から含んでいるのであって、それを含まないものは、あとになって脱落させたのであろうとまで言っている。永積とは全く正反対の見方である。

どちらの説が正しいかについて、筆者はそれに容喙するだけの資質を持たないが、差し支えない範囲で言葉をさしはさむと、次のようになるのではないか。

丸谷は、折口信夫に多くを負っていると告白しているように、その推論の方法にも折口と似ているところがある。折口の方法とは、ものごとを説明するのに、ある仮説を、何らの前提もなしにいきなり提出し、その仮説に基づいて物事を説明していくというものである。仮説はなんらの検証をも経ない、いわば憶断のようなものだが、それでもって眼前にあるものごとがきれいさっぱり説明できれば、それでもよいではないか。仮説の有効性とは、それのよって立つ前提からではなく、それによって説明できる事後的な結果に依存するという立場だ。

それに対して永積のほうは、仮説には前提があるべきだという立場に立っているようである。そしてその前提とは帰納を通じてもたらされると考えているようである。平家物語のような歴史的な所与の場合には、帰納はテクストの分析から導き出される。その結果得られた一定の仮説に基づいて、今度は対象となるものを演繹的に説明してゆく。これは論理学における最も基本的な推論の形であるわけだが、永積は一応それを尊重する姿勢を示しているのに対して、丸谷はそれを素通りしているように見える。もっともそのことで、丸谷の説が荒唐無稽であるとか、説得力に欠けるとか言いたい訳ではないが。







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