ライムライト(Limelight):チャーリー・チャップリン

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チャップリンの映画「ライムライト(Limelight)」は、ミュージカル・コメディともいうべき作品だ。パントマイムを身上とするチャップリンは、映画に台詞を挟むことは無用だと考え続けていたようだが、音楽の効用は認めていた。「黄金狂時代」を初めとして、多くのトーキー作品を再編集した際、音楽を活用することで、映画に新たな命を吹き込んだのは、そのしるしだ。しかも、彼自身に音楽の才能があったので、音楽のプロデュースを自らこなした。「ライムライト」は、チャップリンのこうした音楽への嗜好が反映された作品である。彼はこの映画を通じて、自分なりのミュージカルを作りたかったのだろう。

この映画の中のチャップリンは、基本的には素顔である。彼が素顔で登場するのは、「殺人狂時代」以来これが二度目だが、殺人狂時代では素顔で通したのに対して、この映画の中では素顔と道化の顔との間を行ったり来たりしている。道化の顔をしているときには、彼は歌ってもいるのである。そうすることで、素顔で現れるいわば地の部分と、道化の顔で現れる劇中劇の部分とが、重なり合い、反転しながら、独特の世界を作り上げてゆく。

テーマは、チャップリン映画を彩ってきた道化の恋である。道化が零落した女性に恋をして、その女性を立ち直らせる。しかし女性が立ち直ると、彼は自分の惨めさを自覚して、身を引いてゆく。これは「街の灯」で典型的に現れた形なのだが、チャップリンの映画には多かれ少なかれどの作品にも見られる要素である。言ってみれば、チャップリンの最も得意なパターンなわけで、チャップリンはそれをこの映画で存分に展開させ、それに自分で作ったミュージックをからませて、楽しいミュージカル作品を作り上げている。そのミュージカル作品は、道化の恋を描いているので、コメディでもある。つまり、ミュージカル・コメディになっているわけだ。

この映画に出てくる道化の恋の対象は零落したバレリーナである。彼女が、自分の前途をはかなんで自殺しようとしたところを、道化のカルヴェロことチャップリンが助ける。カルヴェロも零落したアーティストということになっている。彼は、かつてはボードヴィビリアンとして鳴らしていたのだが、いまは自分が助けたバレリーナと同じく、落ちぶれて仕事がない。それでも、彼は生きることにこだわる。そのこだわりが、バレリーナを励まして、彼女にも生きる力を与えるのだ。生きる力だけではない。人を愛することも教えるのである。こうして道化を愛するようになったバレリーナは、成功して脚光を浴びるようになっても、道化への愛を捨てない。しかし、いまや老いぼれて、芸の面でも浮かび上がれない道化には、彼女の愛はまぶしすぎる。そこで道化は身を引こうとするのだが、道化を愛するバレリーナはいつまでも彼を追いかけ続ける。そして最後には、バレリーナの華麗な踊りを目にしながら、道化は静かに息を引き取る。

というわけで、筋書き自体は、なんということもないメロドラマだ。だがそれがただのメロドラマに終わらないのは、チャップリンの見せる道化の表情と、劇中劇の中で展開される踊りやミュージックがあるからだ。とりわけバレリーナの踊りに合わせて演じられる曲は、本格的なオーケストラに乗って、壮大な音の世界を現出している。チャップリンの気合が伝わってくるようである。チャップリンは、踊りを含めたパントマイムとミュージックの組み合わせを存分に展開してみたくて、この映画を作ったのだろうと思えるほどだ。







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