古典主義時代のエピステーメー:フーコーのドン・キホーテ論

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「言葉と物」第三章「表象すること」は、古典主義時代のエピステーメーを論じた諸章の導入部分であるが、フーコーはこれをセルバンテスの古典「ドン・キホーテ」の読解から始めている。「ドン・キホーテ」は、スペインにおけるルネサンス文学の傑作というのが文学史上の常識になっているわけだが、フーコーはこれを、ルネサンスから古典主義時代への移行期における過渡的な作品だと位置づけている。その点は、分野は違うが、ベラスケスの絵画「侍女たち」と同じような位置づけであるわけだ。だが、「侍女たち」が、古典主義時代の先取りであったとされていたのに対して、「ドン・キホーテ」はルネサンスの残照として捉えられている。騎士ドン・キホーテは、古典主義時代の先駆者と言うよりは、遅れてきたルネサンス人という位置づけなわけである。これは、「ドン・キホーテ」と「侍女たち」の間に半世紀の時差があることを思えば、自然なことかもしれない。「ドン・キホーテ」が17世紀の冒頭に現れたのに対して、「侍女たち」のほうは17世紀なかばの人々なのである。

騎士ドン・キホーテはなぜ、遅れてきたルネサンス人と言えるのか。まず、彼がルネサンス人である所以から見ていこう。

ルネサンス人の世界認識を制約していたのは、中世・ルネサンスのエピステーメーであったわけだが、それは、世界のあらゆる事象についての知を類似によって構成するというものであった。どんな事象も、それ単独では意味をなさず、ほかのものとの関係において意味を持つのだが、その意味を規定するのは類似なのである。その類似には大して厳密な要件はない。とにかく、二つ以上のものに何らかの類似が認められれば、それらは互いに関係付けられ、その関係性から意味が発生してくるのである。

騎士ドン・キホーテが捉われていたのはまさに、この類似によって知を構成しようとする中世ルネサンスのエピステーメーだったのである。ドン・キホーテが水車を竜の怪物と勘違いするのはどちらも羽根を持っているという類似点があるからであり、旅籠を城と勘違いするのはどちらも堅固な壁に囲まれているという類似点があるからなのだ。こんなわけで、「彼の道行きのすべては相似関係の探索である。どのようなわずかな類比も、ふたたび語り始めるよう目覚めさせねばならぬまどろんでいるいる<シーニュ>と見て、彼はそれに働きかけるのだ。家畜の群れ、女中、旅籠屋は、それがごくわずかでも城、貴婦人、軍勢に似ている限り、ふたたび書物の言語となる」(「言葉と物」第三章、渡辺・佐々木訳)

だがこの類似は常に幻滅に終わる。そこがドン・キホーテの不幸な所以なのだ。ドン・キホーテがもうすこし早く生まれていたら、彼の言動は奇異なものとは受け取られなかったであろう。多少奇異であると受け取られたにしても、気違い扱いはされなかったであろう。ところが、ドン・キホーテが生きていた時代は、もはやこのような言動について寛容ではなかった。つまりドン・キホーテは生まれてくる時代を間違えたのである。ということは、彼は時代に対して遅れていたわけだ。

小説「ドン・キホーテ」は、中世・ルネサンスのエピステーメーであった類似のみにもとづく知の構成が、もはや有効性を持たなくなった時代を描いているわけだ。すでに人々が類似に意味を認めないところに、ドン・キホーテだけが意味を認める。そうした言動は、彼の周りの人々には、類似と同一とをはきちがえた狂った行為としか見えない。ドン・キホーテは、同一性と相違性とを区別すべきところを、わずかな類似にもとづいて、なにもかもごちゃ混ぜにしてしまう。なぜ、旅籠屋が城と同じになるのか、ドン・キホーテにとって自明なことが、周りの人々にとってはもはや自明でないのみならず、狂ったことだと思われるようになっているわけである。

ドン・キホーテをめぐるフーコーのこの辺の議論は、「狂気の歴史」での、古典主義時代における狂人の排除に関する議論と並行するものだろう。「狂気の歴史」では、中世・ルネサンスの時代を通じて、西欧社会は狂人に対して非常に寛容であったが、17世紀の半ば以降、古典主義時代に入ると急に不寛容になったと言っていた。その理由をフーコーは社会の側の感受性の変化に求めていたが、なぜ感受性が変化したのか、その辺の事情は詳しく言及していなかった。ドン・キホーテをめぐるここでの議論は、その事情の認識論的な背景を解き明かすものになるだろう。つまり、西欧社会に、知の枠組みとしてのエピステーメーの変転が生じたのであり、それに応じて狂気についての人々の感受性も変わったということなのだろう。

というのも、中世・ルネサンスのエピステーメーにあっては、ドン・キホーテのような類似に基づく世界認識というものを、普通の人々も、次元に多少の差はあるにしても、基本的には共有していたわけである。だから、狂人といえども、排除すべきどころか、自分たちの仲間として、仲間と言って不都合ならば、同じ知の枠組みを共有するものとして捉えられていた。しかし、その知の枠組みが変わってしまって、普通の人々が類似よりも相違に注目するようになったのに対して、ドン・キホーテのような時勢に遅れた人間は依然古い枠組みである類似にしがみついている。そこのところが新しいエピステーメーに捉われるようになった人々には、異様に思われたのだ。

ここから先は、中世・ルネサンスのエピステーメーの次に西欧の人々の知的枠組みとなった古典主義時代のエピステーメーについての議論に入る。この二つのエピステーメーの間には連続性はない、というのがフーコーの主張である。前の時代のエピステーメーが、内在的な要因に基づいて変動し、次のエピステーメーに変化する、というふうには考えない。二つのエピステーメーは断絶している。後の時代のエピステーメーは、いわば突然変異のように、いきなり出現するのだ。そしていったん出現すると、前の時代のエピステーメーで解釈されていたことがらをすべて、新しいエピステーメーにしたがって全面的に解釈しなおすという動きが生じると考えている。

そこで、中世・ルネサンスのエピステーメーが類似にもとづく知の構成原理だと言われるのに対して、古典主義時代のエピステーメーがどのような構成原理で成り立っているのか、ということが問題となる。フーコーはこれを、同一性と差異(相違性)に基づく分類の原理だと言う。

分類ということなら、類似に基づいてでもできる。実際中世・ルネサンス時代にも、類似に基づく壮大な分類の体系は存在した。しかしそれらは、アルドロヴァンディの体系のようにかなり恣意的な性格を帯びる。というのは、類似の精神というのは、類似そのものに意義を求めるので、二つ以上の物事の間で、何らかの類似が認められさえすれば、どんなもの同士でも結びついてしまう。その結果アルドロヴァンディのようなかなり恣意的な体系にもなり、場合によっては、ボルヘスが嘲笑したシナの分類体系のようにもなるわけである。

古典主義時代の分類は、基本的には差異に基づいている。類似でなく差異によって、物事は相互に分節化されるのであり、分節化によって物事の分析は進むのであり、その分析に基づいて世界は体系的な認識の相のもとに把握されるのだ。この体系にあっては、同一性とは類似でなく、差異を通じて定義される。同一性とは差異の結節点として事後的に抽出されてくるものなのだ。

フーコーは、古典主義時代の分類の原理として、マテーシスとタクシノミアという一対の概念を持ち出している。マテーシスは代数学、タクシノミアは分類学をイメージした言葉である。つまり代数学的な計量的比較と同一性と差異にもとづく分類の精神によって、世界を体系化するということをこれらの言葉で含意しているわけだ。

マテーシスとタクシノミアを駆使することで、世界は遺漏なく分類され、それらが隙間のない表の空間に体系化される。古典主義時代の知の構成の成果は、この表の空間の中に定着されるわけである。この場合、分類の原理となった同一性と差異とは、人間のまなざしの内実をなす表象に基礎を持っている。この時代の知は、表象を材料にして展開するということなのだが、その部分についての議論は次にゆずることとする。

関連サイト:知の快楽  






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