帝国の慰安婦

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韓国の官憲が「帝国の慰安婦」の著者朴裕河女史を在宅起訴した。起訴理由は、この本が元慰安婦たちの名誉を著しく毀損したということである。九人のもと慰安婦のおばあさんたちも、名誉を傷つけられたと主張している。これに対して、朴裕河女史を支援する人々は、この本は慰安婦の名誉を傷つけてなどはおらず、むしろ慰安婦に深い同情を表明していると反論すると共に、これを権力による言論の弾圧だとして、官憲を厳しく批判している。

韓国の官憲が問題視しているのは、朝鮮半島における慰安婦の募集に、ほかならぬ朝鮮人が深くかかわっていたこと、慰安婦のなかには日本兵と強い連帯感情を持つものもいたこと、などを主張している点にあるようだ。それらの主張によって、慰安婦問題における日本軍の責任を軽くし、あまつさえ朝鮮人に責任の一端をかぶせることで、問題の本質を曖昧にしているというわけであろう。

この騒ぎを見ていて、筆者はハンナ・アーレントを思い浮かべた。アーレントは、イスラエルのアイヒマン裁判を傍聴した印象をルポの形で発表した際に、ユダヤ人の迫害にはユダヤ人自身もかかわっていたと書いて、ユダヤ人社会から総反発を受けた。自分自身もユダヤ人として、ユダヤ人であることに生涯拘ったアーレントが何故、このようなことをしたのか、わからぬことが多いのだが、アーレントはこのことで、かけがいのない友人たち(ほとんどがユダヤ人)をすべて失ったという。

今回の朴裕河女史も、このときのアーレントとよく似た立場にあると筆者には思えた。女史もアーレントと同様に、同じ民族の人の(他の民族による)迫害にその民族の人自身も強くかかわっていたと主張したことで、同民族の人々から村八分的な拒絶反応を受けていると思えるのである。

朴裕河女史は、自分のこの著作に込めた思いは、事実と虚心に向き合うことだったとして、元慰安婦たちの名誉を傷つけようと思ったことはないし、この著作を虚心に読めば、そのような意図を感じ取ることはないはずだと反論している。そこはアーレントとは多少異なるスタンスが感じられるところで、アーレントの場合は、自分がユダヤ人の被害感情を傷つけたことについて、あまり悪びれるところはなかった。

二人に共通しているのは、同民族の人々の責任について言及することは、そもそもその問題について大きな責任を持っている人達(ナチスドイツや旧日本軍)の責任を、いささかも曖昧にするつもりはないということだろう。







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