鱸:平家物語巻第一

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平家物語巻第一第三章「鱸」は、忠盛から清盛に至って平家が貴族として磐石の基盤を築いてゆくさまを語る。前半部分では、忠盛が貴族としての地位を確立するさまを、後半部分では忠盛の死後平家を継いだ清盛が、保元、平治の乱の勲功を経て宰相にのし上がるさまを語る。

前半は、忠盛の出世を語る一方、忠盛が宮中のさる女性とねんごろになり、その女性に忠度を産ませたことがあわせ語られる。このように語ることによって、忠盛が只の無粋な武人ではなく、風流と色を好んだ粋人であったことを強調するわけである。

~其の子ども、諸衛の佐になる。昇殿せしに、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。其比忠盛、備前国より都へのぼりたりけるに、鳥羽院「明石浦はいかに」と、尋ねありければ、
あり明の月も明石の浦風に浪ばかりこそよると見えしか 
と申したりければ、御感ありけり。此の歌は金葉集にぞ入れられける。

~忠盛又仙洞に最愛の女房を持ッてかよはれけるが、ある時其の女房のつぼねに、妻に月出だしたる扇を忘れて出でられたりければ、かたへの女房たち、「是はいづくよりの月影や。出でどころおぼつかなし」とわらひあはれければ、彼の女房、
雲井よりただもりきたる月なればおぼろけにては言はじとぞ思ふ
とよみたりければ、いとどあさからずぞ思はれける。薩摩守忠度の母是なり。にるを友とかやの風情に、忠盛もすいたりければ、彼の女房も優なりけり。かくて忠盛刑部卿になッて、嫡男たるによッて、其の跡をつぐ。


忠盛の死後家を継いだ清盛は、保元・平治の乱で勲功を上げたこともあり、順調に出世してついに太政大臣に上り詰める。この職は、相応しい人がいなければ欠官にしておくほど格式高いものとされていたが、清盛こそはこの職に相応しい人物だと、清盛をたたえる。

~保元元年七月に宇治の左府代をみだり給ひし時、安芸守とて御方にて勲功ありしかば、播磨守にうつッて、同三年太宰大弐になる。次に平治元年十二月、信頼卿が謀叛の時、御方にて賊徒をうちたひらげ、勲功一つにあらず、恩賞是れおもかるべしとて、次の年正三位に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督、検非違使別当、中納言、大納言に経あがッて、剰さへ烝相の位にいたる。左右を経ずして内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将にあらねども、兵杖を給はつて随身をめし具す。牛車輦車の宣旨を蒙つて、のりながら宮中を出入す。偏に執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。国ををさめ道を論じ、陰陽をやはらげ治む。其の人にあらずは則ちかけよ」といへり。されば即闕の官とも名付けたり。其の人ならではけがすべき官ならねども、一天四海を掌の内ににぎられしうへは、子細に及ばず。


章の最後の段落では、清盛がかくも順調に出世したについては、それなりのいわれがあるといって、ひとつの挿話を語る。清盛が安芸の守たりしとき、熊野神社に船で参る途中、一匹の鱸が船の中に踊りこんできた。清盛は、これは吉事の前兆だと言って、精進潔斎の身でありながら、これを料理して皆に食わせた。果たして清盛の予言どおり、その後吉事が打ち続いた。これは、清盛に熊野権現の加護がある証拠である。

~平家か様に繁昌せられけるも、熊野権現の御利生とぞきこえし。其の故は、古へ清盛公いまだ安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ参られけるに、おほきなる鱸の船に踊入りたりけるを、先達申しけるは、「是は権現の御利生なり。いそぎ参るべし」と申しければ、清盛のたまひけるは、「昔、周の武王の船にこそ白魚は躍入りたりけるなれ。是吉事なり」とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎の道なれども、調味して家子侍共にくはせられけり。其の故にや、吉事のみうちつづいて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も竜雲に昇るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤をこえ給ふこそ目出たけれ。 


かくして清盛は順調な人生を謳歌し、平家はますます繁栄してゆくのである。








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