祇王:平家物語巻第一

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(平家物語絵巻から 祇王)

権力の絶頂に上り詰めた清盛は、ますます傲慢になってゆく。そんな清盛の傲慢さを描く一方、その傲慢さに翻弄される白拍子たちの、怨念を超えた友情を育むさまを描いたのが、巻第一第六章の「祇王」である。平家物語の中でも、最も演劇的な部分の一つである。

白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて栄えた芸能の一種である。散楽から派生した諸々の芸能とは異なり、独自の歩みをたどったものらしい。平家物語は、祇王や静御前ら当時の有名な白拍子を描いており、一つの時代を画した遊女のあり方だったように思える。

これら白拍子と呼ばれた遊女たちについては、詳しいことはわかっていない。少なくとも下層の芸能民ではなかったようだ。なかには祇王や仏御前また静御前のように、高貴の人に思われた者もいたことからして、それなりの出自を有していた可能性がある。

 彼女らが披露していた芸能は、主に今様だったらしい。これは院政期の公家社会に発生し、どちらかといえば上流好みの芸であったから、それに従事するものは、ある程度の身分をもっていたと思われる。

かように、白拍子は、古代末期の貴族社会に咲いた徒花のようなものだったともいえる。だから、南北朝以後公家社会が没落し、今様などの上流趣味がすたれるとともに、活躍の場を失い、自然消滅したのだろう。

 白拍子がどのようなもので、どのように振舞っていたかについては、平家物語に記述がある。このほかには、詳しい記録が存在しないようなので、後世に白拍子に言及したものは、殆どが平家物語の記述を引用している。

 平家物語によれば、白拍子は鳥羽院の頃、つまり院生時代の末期(1130年代以降)に現れた。水干、立烏帽子、白鞘刀のいでたちで、男舞を舞っていたが、後には水干ばかりを用いるようになったため白拍子と呼ばれるようになった。

 平家物語の描いた白拍子には、祇王と仏御前、それに義経に愛された静御前がある。ここでは、祇王と仏御前の物語を紹介しよう。平家第一巻に出てくる話である。

 作者の意図は、白拍子そのものの叙述ということにはなく、白拍子の運命を通して、人間のはかなさや仏教の教えを解くことにあるが、これを読むことによって、高級遊女としての白拍子というものの面影もまた、そこはかとなく伝わってくるであろう。

~入道相国、一天四海を掌のうち握り給ひし間、世のそしりをもはばからず、人の嘲をもかへり見ず、不思議の事をのみし給へり。たとへば、其比都に聞えたる白拍子の上手、祇王祇女とておとといあり。とぢといふ白拍子がむすめなり。姉の祇王を入道相国最愛せられければ、是によつて妹の祇女をも、よの人もてなす事なのめならず。母とぢにもよき屋造つてとらせ、毎月に百石百貫を送られければ、家内富貴してたのしい事なのめならず。

~抑我朝に、しら拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇に、島の千歳、和歌の前とて、これら二人が舞ひいだしたりけるなり。はじめは水干に、たて烏帽子、白ざやまきを挿いてまひければ、男舞とぞ申ける。しかるを、中比より烏帽子刀をのけられて、水干ばかりを用たり。扨こそ白拍子とは名付けれ。

~京中の白拍子ども、祇王が幸のめでたいやうをきいて、うらやむものもあり、そねむ者もありけり。うらやむ者共は、「あなめでたの祇王御前の幸や。おなじあそび女とならば、誰もみな、あのやうでこそありたけれ。いかさま是は祇といふ文字を名について、かくはめでたきやらむ。いざ我等もついて見む」とて、或は祇一とつき、祇二とつき、或は祇福・祇徳などいふものもありけり。そねむものどもは、「なんでう名により文字にはよるべき。幸はただ前世の生れつきでこそあんなれ」とて、つかぬものもおほかりけり。

~かくて三年と申すに、又都にきこえたるしら拍子の上手、一人出来たり。加賀国のものなり。名をば仏とぞ申ける。年十六とぞきこえし。「昔よりおほくの白拍子ありしが、かかる舞はいまだ見ず」とて、京中の上下もてなす事なのめならず。仏御前申けるは、「我天下に聞えたれ共、当時さしもめでたう栄へさせ給ふ平家太政の入道どのへ、めされぬ事こそほ本意なけれ。あそびもののならひ、なにか苦しかるべき。推参して見む」とて、ある時西八条へぞまい参りたる。

~人参つて、「当時都にきこえ候仏御前こそ参つて候へ」と申ければ、入道「なんでう、さやうのあそびものは人の召にしたがふてこそ参れ、左右なふ推参するやうやある。其上祇王があらん所へは、神ともいへ、仏ともいへ、かなふまじきぞ。疾う疾う罷出よ」とぞの給ひける。

~ほとけ御ぜんはすげなふ言はれたてまつつて、既にいでんとしけるを、祇王入道殿に申けるは、「あそびものの推参はつねのならひでこそさぶらへ。其上年もいまだ幼さぶらふなるが、適々思たつて参りてさぶらふを、すげなふ仰られてかへさせ給はん事こそ不便なれ。いかばかりはづかしう、かたはらいたくもさぶらふらむ。わがたてしみちなれば、人の上ともおぼえず。たとひ舞を御覧じ、歌をきこしめさずとも、御対面ばかりさぶらふて帰させ給ひたらば、ありがたき御情でこそさぶらはんずれ。唯理をまげて、めしかへして御対面さぶらへ」と申ければ、入道「いでいで我御前があまりにいふ事なれば、見参してかへさむ」とて、つかひをたててめされけり。

~仏御前はすげなふ言はれたてまつつて、車にのつて既に出でんとしけるが、召されて帰参りたり。入道出あひ対面して、「けふの見参はあるまじかりつるものを、祇王がなにと思ふやらん、余に申すすむる間、加様に見参しつ。見参するほどにては、いかでか声をもきかであるべき。今様一つうたへかし」との給へば、仏御前「承さぶらふ」とて、今様ひとつぞうたふたる。君をはじめてみるおり折は千代も経ぬべしひめこ松、おまへの池なるかめをかに鶴こそむれゐてあそぶめれと、おし返しおし返し三返うたひすましたりければ、見聞の人々みな耳目ををどろかす。入道もおもしろげに思ひ給ひて、「わごぜは今様は上手でありけるよ。この定では舞もさだめてよかるらむ。一番見ばや。鼓打めせ」とてめされけり。打たせて一ばん舞ふたりけり。仏御前は、髪姿よりはじめて、みめかたちうつくしく、声よく節も上手でありければ、なじかは舞もそんずべき。心も及ばず舞ひすましたりければ、入道相国まひにめで給ひて、仏に心をうつされけり。

~佛御前、「こは何事にて候ふぞや。本よりわらはは、推参の者にて、已に出され参らせしを、妓王御前の申し状によってこそ召返されても候ふ。はやはや暇賜はって出させおはしませ」と申しければ、入道相國、「すべてその儀叶ふまじ。但し妓王があるによって、さやうに憚るか。その儀ならば、妓王をこそ出さめ」と宣へば、佛御前、「これ又いかでさる御事候ふべき。共に召し置かれんだに恥しう候ふべきに、妓王御前を出させ給ひて、わらはを一人召し置かれなば、妓王御前の思ひ給はん心の中、いかばかり恥しう傍痛くも候ふべき。自ら後までも忘れ給はぬ御事ならば、召されて又は参るとも、今日は暇を賜はらん」とぞ申しける。入道、「その儀ならば、妓王とうとうまかり出でよ」御使重ねて三度まで立てられけれ。 

~祇王は、もとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。入道相國、いかにも叶ふまじき由、頻りに宣ふ間、はき拭ひ、塵拾はせ、出づべきにこそ定めけれ。一樹の陰に宿り合ひ、同じ流れをむすぶだに、別れは悲しき習ひぞかし。いはんや、これは三年が間住み馴れし所なれば、名残も惜しく悲しくて、かひなき涙ぞすゝみける。さてしもあるべき事ならねば、妓王、今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れ形見にもとや思ひけん、障子に泣く泣く一首の歌をぞ書き付けける、 
  もえいづるも枯るゝも同じ野辺の草 何れか秋にあはではつべき 


 ここまでは、かくも権力者の寵愛を得た白拍子が、新しいライバルの登場によって、その座を終われるさまが描かれている。前編のテーマ諸行無常の一バリエーションといえる。あわせて、白拍子の舞がどのようなものであったか、その一端にも触れている。白拍子を知るには、生き生きとした記述であるといえよう。

 祇王は、仏御前を慰めるために参上せよと何度も呼び出されるが、プライドを捨てきれず、なかなか応じないでいた。しかし、矢のような催促に、累の及ぶのを恐れた母親の説得に従い、清盛の館に赴く。そこで屈辱的な扱いを受けた祇王は、いったんは身を投げて死のうともするのであるが、思いとどまり、母や妹とともに髪を剃って、嵯峨に遁世する。

 一方、仏御前は、清盛の寵愛を得ても心喜ばず、いづれは我が身と思い、祇王に同情する。祇王の不幸を、自分がもたらしたと、引け目も感じていたのである。

 物語の終盤は、尼となった仏御前が、草深い庵に祇王たちを訪ねる場面である。平家物語の中でも、とりわけ味わい深いもののひとつである。

~かくて春過ぎ夏たけぬ。秋の初風吹きねれば、星合の空を詠めつゝ、天の戸渡る梶の葉に、思ふ事書く頃なれや。夕日の影の西の山の端に隠るゝを見ても、日の入り給ふ所は西方浄土にてこそあんなれ。いつか我等も彼処に生れて、物も思はで過さんずらんと、過ぎにし方の憂き事ども思ひ続けて、たゞ盡きせぬものは涙なり。たそがれ時も過ぎぬれば、竹の編戸を閉じ塞ぎぎ、燈かすかにかきたてて、親子三人もろともに、念佛して居たる所に、竹の編戸をほとほとと打叩くもの出で来たり。その時尼ども肝をけし、「あはれ、これは、いひがひなき我等が念佛して居たるを妨げんとて、魔縁の来たるにてぞあるらん。昼だにも人も訪ひ来ぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜ふけて誰かは尋ぬべき。僅かに竹の編戸なれば、あけずとも推し破らんことやすかるべし。今はたゞなかなかあけて入れんと思ふなり。それに、情をかけずして命を失ふものならば、年頃頼み奉る弥陀の本願を強く信じて、隙なく名号を唱へ奉るべし。声を尋ねて向へ給ふなる。聖衆の来迎にてましませば、などか引攝なかるべき。相構へて念佛怠り給ふな」と、互に心を戒めて、手に手を取り組み、竹の編戸をあけたれば、魔縁にてはなかりけり。佛御前ぞ出で来たる。 

~妓王、「あれは如何に、佛御前と見参らするは。夢かや。うつゝか」と云ひければ、佛御前、涙を抑へて、「かやうの事申せば、すべてこと新しうは候へども、申し状によってこそ召し返されても候ふに、女の身の云ふがひきなき事、我が身を心にまかせずして、わごぜを出させ参らせて、わらはがおし留められぶる事、今に恥しう傍痛くこそ候へ。わごぜの出でられ給ひしを見しに付けても、いつか又、我が身の上ならんと思ひ居たれば、嬉しとは更に思はず。障子に又、いづれか秋にあはではつべきと書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひ候ひしぞや。いつぞや又わごぜの召され参らせて、今様を歌ひ給ひしにも、思ひ知られてこそ候へ。その後は在所を何くとも知らざりしに、この程聞けば、かやうの様をかへ、一つ所に念佛しておはしつる由、あまりに羨しくて、常は暇を申ししかども、入道殿さらに御用ひましまさず。つくづね物を案ずるに、娑婆の栄花は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。人身は受け難く、佛教には会ひ難し。この度泥梨に沈みなば、多生曠劫をば隔つとも、浮び上らん事難かるべし、老少不定の境なれば、年の若きを頼むべきにあらず。出づる息の入るをも待つべからず。かげろふ稲妻よりもなほはかなし。一旦の栄花に誇って、後世を知らざらん事の悲しさに、今朝まぎれ出でてかくなりてこそ参りたれ」とて、被いたる衣をうち除けたるを見れば、尼になりてぞ出で来たる。

~「かやうに様をかへて参りたる上は、日頃の科をば許し給へ。許さんとだに宣はば、もろともに念佛して、一つ蓮の身とならん。それにも倒れ臥し、命のあらん限りは念佛して、往生の素懐を遂げんと思ふなり」とて、袖を顔に押し当てて、さめざめとかきくどきければ、妓王涙を抑へて、「わごぜのそれ程まで思ひ給はんとは、夢にも知らず。うき世の中のさがなれば、身の憂きとこそ思ひしに、ともすればわごぜの事のみ恨めしくて、今生も後生も、なまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様をかへておはしつる上は、日頃のとがは露塵ほども残らず。今は往生疑ひなし。この度素懐を遂げんこそ、何よりも又嬉しけれ。わらはが尼になりしをだに、世にあり難き事のやうに、人もいひ、我が身も思ひ候ひしぞや。それは世を恨み、身を歎いたれば、様をかふるも理なり。わごぜは恨みもなく歎きもなし。今年はわづかに十七にこそなりし人の、それ程まで、穢土を厭ひ浄土を顕はんと、深く思ひ入り給ふこそ、まことの大道心とは覚え候ひしか。嬉しかりける善知識かな。いざ諸共に願はん」とて、四人一所に籠り居て、朝夕佛前に向ひ、花香を供へて、他念なく願ひけるが、遅速こそありけれ、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞えし。されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、妓王・妓女・佛・とぢ等が尊霊と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。

(絵は、清盛の前で舞を披露する仏御前を描いたもの)








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