鹿谷:平家物語巻第一

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(平家物語絵巻から 鹿谷)

清盛は、娘の徳子を高倉天皇の后にすることで天皇家の外戚となり、その地位はますます高まる一方だった。清盛はその地位を利用して、官位の授与も思うがまま、平家の一族を重要なポストにつけた。それに反感を抱く人々が、平家打倒の動きに出る。巻第一「鹿谷」の章は、そんな動きを伝えるもので、やがて平家物語の前半をかざる僧俊寛たちの運命の序曲となる部分である。

謀反のきっかけは、左大将のポストがあいたこと。その後任には、衆目の見るところ徳大寺(藤原実定)・花山院(藤原兼雅)などが相応しいとされたが、彼等を追い越す形で清盛の嫡男重盛がつき、その後任にはこれも清盛の次男宗盛がついた。

~其比の叙位除目と申すは、院内の御ぱからひにも非ず、摂政関白の御成敗にも及ばず。只一向平家のままにてありしかば、徳大寺・花山院もなり給はず。入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にておはしけるが、左にうつりて、次男宗盛中納言にておはせしが、数輩の上臈を超越して、右にくははられけるこそ、申すはかりもなかりしか。


この人事に、追い越された徳大寺はもとより、新大納言藤原成親も怒りを禁じえなかった。成親は平治の乱では信頼方について、本来なら失脚していてしかるべきを、重盛のとりなしで事なきを得た。平家に対しては、恩こそあれ、うらむのは筋違いと言うべきなのに、出世できない悔しさから、平家打倒に乗り出すのである。

~中にも徳大寺殿は一の大納言にて、花族栄耀、才学雄長、家嫡にてましましけるが、超られ給ひけるこそ遺恨なれ。「さだめて御出家などやあらむずらむ」と、人々内々は申しあへりしかども、暫く世のならむ様をも見むとて、大納言を辞し申して、籠居とぞきこえし。新大納言成親卿のたまひけるは、「徳大寺・花山院に超えられたらむはいかがせむ。平家の次男に超えらるるこそやすからね。是も万思ふさまなるがいたす所なり。いかにもして平家をほろぼし、本望をとげむ」とのたまひけるこそおそろしけれ。父の卿は中納言までこそいたられしか、其の末子にて位正二位、官大納言にあがり、大国あまた給はって、子息所従朝恩にほこれり。何の不足にかかる心つかれけむ。是偏に天魔の所為とぞ見えし。平治には越後中将とて、信頼卿に同心のあひだ、既に誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申して頸をつぎ給へり。しかるに其の恩を忘れて、外人もなき所に兵具をととのへ、軍兵をかたらひおき、其の営みの外は他事なし。


平家打倒の陰謀の舞台となったのが、鹿谷にある僧俊寛の別荘。そこに一味同心が集まった席に、後白河法皇も臨座した。法王は謀議の中身を知って、その是非について側近の浄憲法印に聞いたところ、こんな大勢で謀議していたら、漏れるのは目に見えている。かならず失敗するに決まっていると言う。

それを聞いた成親らは、一向に思慮をめぐらす気配がない。倒した瓶子を平氏に語呂合わせして、やれ平氏が倒れたとはしゃぎまわる始末である。

~東山のふもと鹿の谷と云所は、うしろは三井寺につづいてゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都の山庄あり。かれにつねはよりあひよりあひ、平家ほろぼさむずるはかりことをぞ廻らしける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が子息、浄憲法印御供仕る。其の夜の酒宴に、此由浄憲法印に仰せられければ、「あなあさまし。人あまた承候ひぬ。只今もれきこえて、天下の大事に及び候ひなむず」と、大にさはぎ申しければ、新大納言けしきかはりて、さッとたたれけるが、御前に候ひける瓶子をかり衣の袖にかけて引きたふされたりけるを、法皇「あれはいかに」と仰ければ、大納言立かへりて、「平氏たはれ候ぬ」とぞ申されける。法皇ゑつぼにいらせおはして、「者どもまいッて猿楽つかまつれ」と仰ければ、平判官康頼まいりて、「ああ、あまりに平氏のおほう候に、もて酔て候」と申す。俊寛僧都「さてそれをばいかが仕らむずる」と申されければ、西光法師「頸をとるにはしかず」とて、瓶子のくびをとッてぞ入りにける。浄憲法印あまりのあさましさに、つやつや物を申されず。返々もおそろしかりし事どもなり。与力の輩誰々ぞ。近江中将入道蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、摂津国源氏多田蔵人行綱を始として、北面の輩おほく与力したりけり。


成親以下の公家たちの無思慮振りが、皮肉たっぷりに語られている部分である。浄憲法印の予言どおり、この謀議は発覚して清盛の知るところとなり、首謀者格の康頼・俊寛の二人及び成親の子成経が鬼界が島に流されることになった。

(絵は、鹿ケ谷の俊寛の山荘で、清盛打倒を謀議する公家たちと後白河法皇)







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