身体刑から監禁へ:フーコー「監獄の誕生」

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フーコーは「監獄の誕生」を、フランス国王暗殺未遂犯ダミアンに対する1757年3月2日の判決を引用することから始める。それは以下のような内容だった。

「手に重さ二斤の蝋製松明を持ち、下着一枚の姿で、パリのノートルダム大寺院の正面大扉のまえに死刑囚護送車によって連れてこられ、公衆に謝罪すべし」つぎに「上記の護送車にてグレーヴ広場へはこびこまれたのち、そこへ設置される処刑台のうえで、胸、腕、腿、脹らはぎを灼熱したやっとこで懲らしめ、その右手は、国王殺害を犯したさいの短刀を握らせたまま、硫黄の火で焼かれるべし、ついで、やっとこで懲らしめた箇所へ、溶かした鉛、煮えたぎる油、焼け付く松脂、蝋と硫黄との溶解物を浴びせかけ、さらに、体は四頭の馬に四裂きにさせたうえ、手足と体は焼きつくして、その灰はまき散らすべし」(フーコー「監獄の誕生」冒頭部分、田村俶訳、以下同じ)

つづいてこの判決が執行されたさいの、身の毛のよだつような恐ろしい光景が記述される。それを読まされると、我々現代人は、18世紀半ばのフランスの刑罰が、今日の時代のそれとは全く似ていないことに気づかされる。それは刑罰に持たされていた役割が、18世紀半ばのフランスと今日の時代の西欧社会や日本と根本的に異なるからだ、とフーコーは言う。では、18世紀半ばのフランスでは、刑罰にはどのような役割が持たされていたのか。

フーコーは、それを二つの面から解明する。一つは政治的な側面、もう一つは見世物としての側面。この二つの側面はコインの表裏のように一体となって、刑罰を単なる司法上の問題ではなく、社会全体を映し出す鏡のようなものとして機能させる。刑罰の執行を通じて、18世紀半ばのフランス人たちは、自分たちがどのような社会に生きているのか、暗黙のうちにではあれ、感得させられたに違いないのだ。

まず、見世物としての即面から見ておこう。今の時代なら、死刑のような極刑でも、その執行は一般の人の目に触れないところで行われる。ところが18世紀半ばのフランスでは、都市のど真ん中で、大勢の人々の目の前で執行された。その光景は当時の人々にとっては最高の見世物だったのであり、犯罪者はその重要な演技者の一人だったわけである。見世物であるから、簡単に、あるいはあっけなく済んでしまっては芸がない、執行はなるべく長い時間をかけ、しかも最大限に残酷なものでなければならない。人々は、その残酷な刑罰を受け苦しみのた打ち回る犯罪者の姿を見て、血湧き肉の踊るのを覚え、ある種のカタルシスを体験したに違いないのだ。

この見世物のなかでは、犯罪者は、上記の判決文にもあるとおり、公衆に対して自分の犯した罪を謝罪しなければならない。ケースによっては、そのとおり謝罪した者もあっただろうが、大部分の犯罪者は、自分を断罪したものをかえって罵ったと思われる。そうした犯罪者に対しては、残酷な身体刑が重ねられただろうが、多くの場合にはそうした身体刑は犯罪者の寿命を縮めることにしかならなかったから、執行吏はそれを手加減しなければならなかっただろう。その結果、死刑の執行が失敗に終わることもあったらしい。その場合には、犯罪者は無罪と宣言されて、二度と刑を執行されることを逃れたと言われる。

しかしなぜ、公衆に対して謝罪しなければならない、とされたのだろう。これは、刑罰のもう一つの側面である政治的な面とからむ。今日では、犯罪と刑罰には罪刑法定主義が適用されて、死刑を含む刑罰は法律に規定された犯罪要件を満たすものに適用される。そうした点で非常にテクニカルな外見を呈しており、そこに政治的な意図を直接に読み取ることは困難である。たしかに、法廷で社会を騒がせたことに遺憾の意を表明することは、罪刑を軽くする要因とはなるが、それは本質的なことではない。せいぜい、懲役の期間の設定に一定の影響を及ぼすくらいである。ところが18世紀のフランスにあっては、犯罪は司法への挑戦である以上に社会全体への挑戦とみなされた。犯罪者の犯した行為によって、社会全体が挑戦を受け、侮辱されたと捉えたわけである。その被害感情とも言うべきものが、犯罪者の処罰を、我々現代人の眼からは不必要と思われるほど、執拗で残酷な身体刑にするよう要求したのだと思われる。

つまり、「身体刑は司法の回復を行うのではなく、権力の挽回を行っていた」(同上)のである。18世紀半ばのフランスにおいては、権力は国王が握っていた。したがって犯罪を通じての社会に対する挑戦は国王への挑戦とみなされた。なかでも、国王殺害は、権力そのものへの全面的な敵対であった。それ故、「国王殺害者に対する理念的な処罰こそ、在りうべきすべての身体刑のなかでも最高の形のものでなければなるまい。それは無限の報復となるに違いない」(同上)
と考えられていた。

上述のダミアンのケースが、身の毛のよだつような残虐性を帯びているわけは、それが国王暗殺という、最高レベルの悪を対象としたものであったからである。最高レベルの悪に対しては、最高レベルの残虐性を以て報いねばならない、というわけであろう。「<極度の残忍性>は、したがって二重の役割を果たすのである。つまり、それは刑罰と犯罪のつながりの根本である反面、犯罪に対する刑罰の激昂状態でもある」(同上)

死刑は身体刑の極端なケースであり、身体のみならず身体に宿っている生命までも奪う行為であるが、死刑に値しないような軽度な犯罪に関しても、基本的には身体刑が課された。たとえば鞭打ちとか、ガレー船での過酷な労働と言ったものだ。後者については、「レ・ミゼラブル」のなかで、ジャン・ヴァルジャンが課せられるさまが描かれているが、それは労働とは言えないような、単に犯罪者へ苦痛を与えることだけを目的とした苦役であった。つまり、18世紀半ばまでのフランスでは、犯した罪に対しては身体をもって償うことが求められていたのである。

ところが、ダミアンに対する判決から半世紀も経たないうちに、つまり18世紀の末から19世紀のはじめにかけて、身体刑は基本的には消滅する。無論、死刑制度を残した国にあっては、なんらかの形での死を目的とした身体刑(たとえば絞首刑とか斬首刑"フランスにおいてはギロチンと呼ばれるもの")は残った。しかし死刑以外の刑罰においては、身体刑は廃止されて、監禁がそれに取って代わった。監獄はこうした刑罰の様式の変化に伴うものとして生まれたのである。監禁のための施設、それが監獄なのである。

身体刑から監禁へのこの移行は、どのような要因によって起こったのだろうか。文明の進化というものも考えられるだろう。啓蒙の時代を通して、フランス人の文明意識は飛躍的に高まった。いまや文明的な国民になりつつあるフランス人にとって、残虐な身体刑は野蛮さの象徴である。刑罰は、文明に相応しくエレガントな形式をとらねばならない。それは簡略化と経済合理性に支えられている必要がある。刑罰を簡略化して監禁に一本化する。刑罰の軽重は監禁の長短によって調整すればよい。また、刑罰が人間の身体ではなく精神に働きかけることで、もしかしたら彼ら犯罪者を社会に有用な人間に作りかえることができるかもしれない。それは経済合理性の理念にかなったことだ。

死刑についても、簡略化と合理性が求められるようになった。死刑の執行は一回限りで確実なものでなければならない。時間をかけて犯罪者の苦痛を楽しむというのは野蛮人のすることである。文明人はビジネスライクに死刑を執行せねばならないというわけだ。死刑の執行は万人にとって平等でなければならぬし、一死刑囚について一回限りでなければならないのだ。

以上は、文明論的な考察による説明である。しかしそうした表層のレベルの下には、もっと現実的な要因が働いている、とフーコーは言う。それは、国王からブルジョワジーへの権力の移行を背景としている。国王の権力に象徴される古い時代の権力は、権力への挑戦に対しては、それを身体によって償わせ、しかもその光景を見せしめとして民衆に見せる必要を感じた。ところが新しく権力を握ったブルジョワジーには、そんな必要は毫もない。彼らにとっての必要事は、自分たちの私有財産を守ることなのであって、その目的から、どのように犯罪と刑罰との相関関係を立て直すかが最大の関心事になった。犯罪者を監禁して規律・訓練を施すと言うのは、そうした関心事に応える最良の方法だった、というのがフーコーの基本的な見立てのようである。

関連サイト:知の快楽  






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