2016年2月アーカイブ

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(醍醐寺三宝院)

醍醐寺には以前訪れたることあれど、その折には三宝院に立ち入らざりき。この日は逆に、醍醐寺の本堂構内には立ち入らず、もっぱら三宝院の庭を見たり。この庭は秀吉により作られたるものにて、桃山時代の様式を伝ふるものとして貴重な遺構なる由。

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エリトレアは小アジアのイオニア地方にあった都市である。この都市を建設したのはクレタの人エリトルスであったので、彼の名にちなんでエリトレアと名づけられた。この都市には何人かの巫女の存在が指摘されているが、もっとも有名なのは、エリトレア出身のアポロドーロスの証言による者である。彼は同時代のエリトレアの巫女が、トロイ戦争の勃発とトロヤの敗北を予言したと言っている。また、この戦争について、ホメロスがうそをつくとも予言したそうである。

内田樹によるレヴィナスの他者論

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内田樹がレヴィナスの思想の核心をその他者論にあると捉えていることは、彼のレヴィナス論「レヴィナスと愛の現象学」の全体が、他者としての師匠、他者としての神、そして他者としての女、についての議論に当てられていることからも窺われる。その議論はかなりわかりづらいのだが、それはレヴィナス自身の思想がわかりづらいからか、それとも内田によるレヴィナスの紹介の仕方がわかりづらいのか、レヴィナスに通暁していない筆者のようなものには判断がつかない。しかし一定の推量はできそうなので、推量が出来る範囲で、内田によるレヴィナスの他者論について考えてみたい。

歓修寺、随心院:京都観庭記続編その一

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余京都へ旅するごとに古刹の庭を見るを楽しみとなすも、未見の庭いまだ多し。よってそれらを一度に観了せんとて特別に計画を立てたり。あはせて桂・修学院の両離宮をも見物せんとす。老人の趣味なれば同行者を伴はず。一人旅を楽しまんとすなり。

廻文:平家物語巻第六

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頼朝の挙兵に続いて、木曽義仲の動向が語られる。義仲は、頼朝とは従弟の関係にあり、父親の義賢が兄の悪源太義平に殺された後、木曽の山中で豪族に育てられていた。頼朝の挙兵を聞き及んで、自分も信濃から呼応し、平家を滅ぼした上で、頼朝とともに二人将軍になりたいという夢を持つに至る。

仁義なき戦い 広島死闘篇:深作欣二

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仁義なき戦いシリーズ第二作「広島死闘篇」は、副題にあるとおり、広島のやくざたちの死闘を描いた作品である。菅原文太演じる呉のやくざ広能は脇役で、主役は広島のやくざたち、とりわけ北王子欣也演じる若いやくざである。この若いやくざが、広島のやくざたちの勢力争いの中で、一歯車になり、次々と暴力沙汰を繰り広げた挙句、最後は警察官に取り囲まれて、拳銃で自殺するというものである。この若いやくざと刑務所の中で知り合った広能は、蔭に日になって面倒を見てやるが、外の土地のやくざの抗争に深いかかわりを持つわけにもいかず、いわば見殺しにするというような展開になっている。やくざの世界には、義理も人情も通じない、むき出しの暴力だけが物を言う、そんなふうに思わせるところが、相変わらずこのシリーズのすごいところだ。

宜冬:蕪村の十宜図

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蕪村の十宜図から「宜冬」。もとになった李漁の漢詩「伊園十宜」のうち「宜冬」は次のとおりである。

  茂林宜夏更宜冬  茂林夏に宜しく更に冬に宜し
  禦卻寒威當折衝  寒威を禦卻して當に折衝すべし
  小築近陽春信早  小築陽に近して春信(まこと)に早し
  梅花十月案頭供  梅花十月案頭に供ふ

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第四圏は、財貨を貯めるものと浪費する者とがいがみ合っているところ。彼らの運命を左右しているのは命運の女神である。そこで命運の女神について、その特徴が語られる。

米紙ワシントンポスト(WP)が社説で共和党員に向かって、トランプを大統領候補に選ばないよう、彼への不支持を訴えた。理由は明確だ。トランプのデマゴギーは共和党の伝統を破壊するというものだ。これは日本で言えば、大新聞の社説が、自民党の党員に向かって、安倍晋三が自民党のよき伝統を破壊しているという理由で、彼への不支持を訴えるようなものだ。日本でそんなことをしたら、どんな騒ぎになるか、いうまでもない。ところが、アメリカでは名指しされた当のトランプを含めて、これを問題視して弾劾する動きは見られないようだ。彼我の政治文化の差異を考慮しても、今回のWP紙の態度は、非常に示唆に富んだことだといえよう。

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エゼキエルは、バビロン捕囚時代に神によって招命された預言者である。神による彼の招命および彼の予言の詳細は旧約聖書の「エゼキエル書」に記されているとおりである。エゼキエルについて知られていることは、すべてこの書物によっている。

レイテ島上日本軍の壊滅を決定的にしたのは、12月7日の米軍のオルモック湾上陸と同15日のミンドロ島上陸である。米軍のオルモック湾上陸によって、レイテ島上の日本軍は拠点を失い、全軍の司令部までが放浪するようになる。また米軍のミンドロ島上陸によって、大本営はレイテ島の放棄を決意するに至る。米軍のフィリピン攻略と日本本土攻撃が俄かに現実味を帯び、レイテ島の防衛どころではなくなったからである。

小督:平家物語巻第六

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(平家物語絵巻から 小督)

「小督」の章は、能の人気曲にもなっており、また黒田節の一節にも取り入れられているとおり、人々にとりわけ親しまれてきた部分だ。これだけでも独立した物語になるのであるが、平家物語の流れのなかでは、高倉天皇をめぐる一連の逸話の一つとして語られる。また、清盛の横暴を示す一例としての意義もある。

仁義なき戦い:深作欣二

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1973年の映画「仁義なき戦い」は、やくざ映画の通念を変えただけではなく、日本映画にとっても画期的な作品だったといえる。やくざ映画といえば、戦前からの伝統にたった仁侠映画がそれまでの主流であり、それは高倉健を主役に立てた諸リーズでも変わらなかった。義理と人情を重んじる人間同士の触れ合い、それがやくざ映画の骨格をなす要素だった。ところが「仁義なき戦い」では、そんな人間的な要素は微塵も見られない。見られるのは、ただただ暴力の爆発である。暴力自体を描くのは、それまでの日本映画にもなかったわけではなく、実際に黒澤などは、「酔いどれ天使」などのなかで、きわどい暴力を描いてもいたが、それらの暴力には、どこかで暴力の理屈のようなものがあった。ところが「仁義なき戦い」のなかで展開される暴力は、理屈もへったくれもない、ただただ暴力のための暴力といった趣を呈している。こんな映画はそれまでの日本映画にはなかった要素だ。それが画期的だというのである。

宜秋:蕪村の十宜図

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蕪村の十宜図から宜秋図。もとになった李漁の詩「伊園十宜」のうち「宜秋」は次のとおりである。

  門外時時列錦屏  門外時時錦屏列なる
  千林非復舊時青  千林復た舊時の青さにあらず
  一從澆罷重陽酒  一に從って澆(そそ)ぎ罷む重陽の酒
  醉殺秋山便不醒  秋山に醉殺して便ち醒めず

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二人が第三圏を下りて第四圏に入ろうとすると、その入口にプルートーが控えていて行く手を阻もうとする。それをヴィルジリオが一喝して二人は先へと進む。

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システィナ礼拝堂天井画には、シビュラと呼ばれる巫女の画像が五点ある。シビュラとは、古代ギリシャにおけるアポロンの神託を媒介する巫女のことを言った。聖書との関連は殆どないといってよいが、ミケランジェロは一群の預言者像を描き入れることに伴うバランス上の配慮として巫女を加えたのかもしれない。ミケランジェロの時代には、女の預言者といえばシビュラのことをさしたくらい、シビュラは人々に訴えるものがあった。

レイテ島上の地上戦を担ったのは、第14方面軍隷下の第35軍であった。第14方面軍はフィリピン全体を管轄していたが、そのうち第35軍は、ミンダナオとビサヤ諸島を担当した。レイテ決戦が軍の方針となるや、35軍の総力をレイテ島に投入し、足りないところは満州の第一師団や、ルソン島の26師団等で補ったことは先述のとおりである。

参議院憲法審査会の質疑のなかで、自民党の某議員が、日本がアメリカの51番目の州になるべきだという趣旨の発言をしたそうだ。この事自体大いに問題だが、この議員はこの発言の関連で、オバマ大統領が黒人であることに触れ、黒人奴隷の子孫であるものでさえアメリカ大統領になれた、というような発言を併せて行った。メディアが飛び付いたのは、こちらのほうで、この発言が人種差別だといって騒ぎ立てた。一方、日本が米の51番目の州になるべきだとの発言については、ほとんど問題とされなかった。

宜夏:蕪村の十宜図

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「蕪村十宜図」から「宜夏」の図。もととなった李漁の漢詩「伊園宜夏」は次のとおりである。

  繞屋都將綠樹遮  屋を繞って都て將(これ)綠樹の遮ぎるところ
  炎蒸不許到山家  炎蒸山家に到るを許さず
  日長閑卻羲皇枕  日長くして閑卻す羲皇の枕
  相對忘眠水上花  相ひ對して眠りを忘る水上の花

「性の歴史」第四章「性的欲望(セクシュアリテ)の装置」においてフーコーは、セクシュアリテと権力とが互いに深く絡み合っているさまを描き出した。フーコーの認識によれば「セクシュアリテ」というのは、ヨーロッパの歴史においては、ブルジョワジーの登場と共に歴史の正面に出てきたものであり、そういう意味ではブルジョワジーに固有の、階級的な色彩を帯びたものなのである。「ブルジョワジーの性的欲望というものがある、階級的な性的欲望があるのだと言わなければならない。というよりかむしろ、性的欲望(セクシュアリテ)というものは起源からして本来的に、歴史的にブルジョワジーのものであり、その連続的な移動とその転移において、特殊な階級的作用をもたらすものなのだ、と」(「性の歴史」第四章、渡辺守章訳、以下同じ)

富士川:平家物語巻第五

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(平家物語絵巻より 富士川)

頼朝の挙兵に対して、平家は、惟盛を総司令官、忠度を副司令官とする追討軍を向けることとした。惟盛の出陣姿はあでやかに美しく、一方忠度は愛人と別れの歌を読み交した。このように表現することで、平家方の武将が、公家にかぶれて武士らしさを失っていることを揶揄しているのだろう。

昭和残侠伝唐獅子牡丹:佐伯清

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「昭和残侠伝唐獅子牡丹」は「昭和残侠伝」シリーズの第二作であるが、筋の上では、一作目と二作目とは何の関係もない。高倉健演じる主人公の名も、映画が展開する舞台も違う。こちらは、昭和初期の地方都市宇都宮の石切場が舞台となっている。このように話の細かい要素には違いがあるのだが、話の骨格は非常に似ている。どちらも、落ち目のやくざと新興のやくざの抗争を描いていること、新興のやくざのえげつないやり方に、落ち目のやくざのヒーローが堪忍袋の緒を切らし、単身相手の懐に乗り込んだかと思うと、超人的な能力を発揮して悪人どもを退治するという話だ。落ち目のやくざのほうには、一宿一飯の恩義を感じる客人やくざがいて、それが加勢するというのも同じだ。一つ違うのは、もっともこれは映画にとっては重大な違いなのだが、高倉健演じるヒーローが、一作目では落ち目のやくざの指導者だったのに対して、こちらの映画では客人になっていることだ。一作目で池部良の演じていた役柄を高倉健が受け持ち、その高倉健が一作目で演じていた役柄を池部良が演じているというわけだ。

おのれの半生を語る:新橋古今亭にて

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先日四方山話の会の連中と新年会をやった時、それぞれ自分の生きてきた半生について語ることにしようということになり、筆者がその先陣を仰せつかる事となった。そこで、なにを話すかあらかじめ準備して席に臨んだ次第だった。会場は新橋の烏森神社の隣にある古今亭という料理屋、この界隈で明治の頃から鳥料理を出している老舗ということだ。今夕のメンバーは筆者のほか、福、石、浦、岩、田、柳それに七谷の諸子。前回のメンバーから二人が抜けて一人が加わった勘定だ。

宜春:蕪村の十宜図

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蕪村の「十宜図」シリーズは、池大雅の「十便図」とともに「十便十宜図」と称され、一括して国宝指定されている。この共作を企画したのは大雅だといわれる。大雅がまず、明の文人李漁の漢詩「伊園十便十二宜」の連作をもとに「十便図」を描き、残りの十二宜(実際には十宜)を絵にするよう蕪村に求めたのだった。蕪村はそれに応え、詩文に絵を添えて「十宜図」とした。時に明和八年、蕪村馬歯五十六の年である。

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怒り狂うケルベロスをヴィルジリオが手なづけると、ダンテは、フィレンツェの人チャッコに話しかける。するとチャッコは、フィレンツェに降りかかるであろう凶事について予言し、また、ダンテが会いたいと望んでいる人々がどこにいるか教えてくれた、

安倍晋三総理が国会質疑の中で、GRIFの運用損が伝えられていることに関して、将来GRIFの運用が悪化すれば年金給付額が減額されることはありうると答えたそうだ。大方の日本人はこれを聞いて唖然としたのではないか。

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システィナ礼拝堂天井画は、創世記からとった九つの場面からなるシリーズを縦軸(東西軸)に添って並べたうえ、その周り(すぐ外側に接した部分)を預言者及び巫女の画像で囲んでいる。南北にそれぞれ五図づつ、東西にそれぞれ一図づつ、合計十二図である。内訳は預言者が七図、巫女が五図である。

内田樹「レヴィナスと愛の現象学」

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レヴィナスが現代思想の巨人の一人だということは聞いていたが、その本を読んだこともなければ、その思想がどのようなものかもろくに知らなかった。そのレヴィナスを内田樹が高く評価するばかりか、自分の考え方の拠り所にもしているというので、このたびその内田樹の書いたものを手がかりにしてレヴィナスの思想の一端に触れてみようと思った次第だ。というのもレヴィナスの書いたものは非常に難解だと言われており、一度や二度テクストを読んだくらいではとても理解できないという。そこでレヴィナスの弟子を任じている内田ならば、師匠の思想を噛み砕いて日本人に解説してくれるのではないか、そんな期待を持ったのである。内田を通じてレヴィナスの思想の一端にせまることができるか、それともレヴィナスを材料にして内田が自分の思いのたけを吐露するのを聞かされるのか。それは読む前には無論わからなかったし、読んだ後でも明らかにはならなかったが、面白く読んだことは確かなので、読まないよりは良かったと思っている。

福原院宣:平家物語巻第五

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伊豆国奈古屋に住み着いた文覚は、蛭が小島の頼朝を足繁く訪れては、平家打倒の説得をした。しかし頼朝がなかなか立ち上がろうとしないので、文覚は一計を労す。頼朝の父義朝の髑髏だというものを取り出して、父親の無念をすすぐ為にも平家打倒の謀反を起こすべきだと迫る。これには流石の頼朝も心を動かされる。

昭和残侠伝:佐伯清

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「昭和残侠伝」は、「日本侠客伝」とともに高倉健主演のやくざ映画の代表的な作品である。ふたつとも、後にシリーズ化されて、いわゆる東映やくざ映画のドル箱となった。

眺便:池大雅の十便図

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池大雅の十便図から「眺便」図。もととなった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「眺便」は次のとおりである。

  叱羊仙洞赤松山  羊を叱す仙洞赤松の山
  一日雙眸數往還  一日雙眸數しば往還す
  猶自未窮千里興  猶ほ自づから未だ千里の興を窮めず
  送雲飛過括蒼間  雲の飛び過ぐを送る括蒼の間

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地獄の第三圏の獄卒ケルベロス。ケルベロス(チェルベロ)とは、ギリシャ神話に出てくる怪物で、地獄の番犬と言われていた。その形は、頭を三つ持ち、ヘビの尾、そして首の周りには無数のヘビがまとわりついている姿であらわされる。

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創世記がノアの泥酔の話をさしはさんだのは、ノアの三人の息子たちの言動が、人類のその後の歴史に大きく影響したのだと言いたいためだったと思われる。ノアにはセム、ハム、ヤペテという三人の息子があったが、セムはイスラエル人の、ハムはアラブ人の、ヤペテはそのほかの人種の祖先となった。この三人のうち、セムとヤペテは父親ノアの祝福を受けたが、ハムは呪いを蒙った。そんなこともあって、イスラエル人が引き続き神の選良でありつづけたのに対して、ハムの子孫たるアラブ人はイスラエル人の敵とみなされるようになる。

第68旅団:大岡昇平「レイテ戦記」

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第68旅団は、満州で養成された特殊部隊で、戦闘能力も高く装備も充実していたと大岡は言っている。この旅団がレイテ島の西北端カモテス海に面したサン・イシドロに上陸したのは12月7日のこと。上陸した旅団兵力を大岡は5000とか4000とか書いているが、エピローグに載せている兵力内訳には6300とある。差し引きの数字はどうなったのか、海没したのか、明記されていない。米軍の空爆にさらされながらの上陸で、人員の揚陸だけで精一杯、武器弾薬は揚陸できず、ほとんど裸の状態での上陸だった。

防夜便:池大雅の十便図

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池大雅の十便図から「防夜便」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「防夜便」は次のとおりである。

  寒素人家冷落村  寒素たる人家冷落の村
  只凴泌水護衡門  只泌水に凴り衡門護る
  抽橋斷卻黃昏路  橋を抽して斷卻す黃昏の路
  山犬高眠古樹根  山犬高く眠る古樹の根

性の言説化:フーコー「知への意思」

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「知への意思」の第一章にフーコーは、「我らヴィクトリア朝の人間」という奇妙な題名をつけた。ヴィクトリア朝とは、イギリスでヴィクトリア女王が統治していた時代で、十九世紀のほぼ三分の二を占める長い期間をカバーしている。この時代を一言で特徴付けると、それは礼節の時代だったと言うことが出来る。人々は礼節を重んじる余り、下品な言動に極度に神経質になった。とりわけ性的な事柄を人前でほのめかしたりすることは、もっとも下品なことだとされた。この時代は、「女王様のあの淑女ぶった顔」(「性の歴史」渡辺守章訳、以下同じ)に象徴されるように、性的な事柄(セクシュアリテ)が極度に抑圧されていた時代だというふうに考えられているのであり、フーコーら二十世紀半ばのヨーロッパ人も、いまだにその抑圧の虜になっていると思われていた。

ベッキー・バッシングは性差別か?

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タレントのベッキー(本名レベッカ・エリ・レイ・ヴォーン)が、妻帯者の男性と不倫したというのでスキャンダルとなり、散々なバッシングにあったうえで、芸能界から事実上追放されるという事態に追い込まれた。一方、不倫の相手方のタレント男性は、道義上の非難は浴びたものの、バッシングの程度はベッキーのように激しくはなく、芸能界から追放されるようなことはなかった。一方的に悪者にされ、世間に向かって深々と頭を下げて、謝りつづけるベッキーの姿だけが、印象に残った。その印象は無論後味の悪いもので、日頃芸能界などには関心のない筆者のような者の目にも、彼女のそうした姿が可哀そうに映ったものだ。

文覚被流:平家物語巻第五

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出家後、文覚は神護寺を再興するため、勧進帳を持って寄進を求め歩いた。そんな折、後白河法皇の御所たる法住寺殿に出かけ、宴会たけなわのところに現れると、大音声を張り上げて勧進帳を読み上げ、寄進を迫った。その声のために、折角の音曲も調子が狂ってしまったほどであった。

網走番外地:石井輝男

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「網走番外地」は「日本侠客伝」及び「昭和残侠伝」と並んで、高倉健をやくざ映画のヒーローにした作品である。この映画によって網走刑務所が一躍有名になり、この刑務所を歌った映画の主題歌は、本編とそれに続くシリーズの連作の中で歌われ続け、長らく巷の流行歌ともなった。だがそれにしてはこの映画は、今から見るとあまり迫力があるとはいえない。約一時間半の上映時間のうち、前半は網走刑務所での囚人たちの生き様が、後半では刑務所を脱走した高倉健たちが北海道の雪原を逃走するシーンが描かれているのであるが、どちらもいまひとつ迫力がないのだ。

樵便:池大雅の十便図

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池大雅の十便図から「樵便」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「樵便」は次のとおりである

  臧婢秋來總不閒  臧婢秋來總て閒かず
  拾枝掃葉滿林間  枝を拾ひ葉を掃ふ滿林の間
  抛書往課樵青事  書を抛って課に往く樵青の事
  步出柴扉便是山  柴扉を步み出れば便ち是れ山

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第二圏で気を失ったダンテが正気を取り戻すと、すでに第三圏たる貪欲者の圏にいた。ここは貪欲の罪によって落とされてきた罪人どもがいるところ。彼らは、休みなく降る雨に濡れそぼちながら、三頭の怪獣ケルベロスに身を引き裂かれ、永遠にのたうちまわる運命にある。

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創世記は、神が洪水を起こしたのは、人の悪が地にはびこった為に一旦彼等を滅ぼそうと決心したからということになっている。だがすべての人を滅ぼすにはしのびず、ノアとその家族を、一部の動物たちと共に生き延びさせることとした。その部分を創世記第六章は次のように記述している。

村上春樹「職業としての小説家」

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村上春樹の最新の本「職業としての小説家」は、村上本人が「自伝的エッセイ」と言っているように、彼自身の小説家としての今までの生き方を振り返ったものだ。彼はこれまでにも、さまざまな機会に自分の小説家としての生き方を語ってきており、そういう点では目新しいものは見当たらないのだが、一冊の本にまとまったものを見ると、村上の小説家としての生き方が多面的・重層的に展開された形で描かれているので、村上という作家に関心を抱いているもの、たとえば筆者のようなものには、それなりに読んで面白い本だ。

文覚荒行:平家物語巻第五

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(文覚上人画像 神護寺蔵)

頼朝が平家打倒に立ちあがったについては、文覚の影響が大であったとされる。文覚は、神護寺の再興を後白河法皇はじめ権力者たちに強訴したかどで伊豆に流されたが、そのときに、同じく流人の境遇で伊豆にいた頼朝と親しくなった。そこで、この二人の間に色々な伝説が生じたが、頼朝が文覚の説得によって平家打倒を決意したというのは、その最たるものである。

日本侠客伝:マキノ雅弘

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「日本侠客伝」は、1960年代後半に爆発的に流行したいわゆるやくざ映画のさきがけとなった作品である。高倉健主演のこの映画は、「東映やくざ」映画と称される膨大な作品群の手本となったものであり、ストーリー展開や人物設定などさまざまな面で、以降のやくざ映画に大きな影響を与えた。

課農便:池大雅の十便図

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池大雅十便図から「課農便」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「課農便」は次のとおりである。

  山窗四面總玲瓏  山窗四面總て玲瓏
  綠野青疇一望中  綠野青疇一望の中
  凴几課農農力盡  几に凴りて農を課せば農力盡く
  何曾妨卻讀書工  何ぞ曾て讀書の工を妨卻せん

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第二圏に入って行ったダンテらは、そこで二人の人々を見る。フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタの亡霊である。フランチェスカはラヴェンナの城主の娘であったが、隣国の城主ジャンティオット・マラテスタと政略結婚させられた。この際、醜男であったジャンティオットは、結婚が成立しないことを恐れて、色男であった弟のパオロを替え玉に立てた。フランチェスカとパオロはお互いに一目惚れして、愛し合うようになった。

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システィナ礼拝堂天井画のうち創世記に取材した九つの場面の最後の三つはいづれもノアの物語に取材している。すなわち「ノアの煩祭」、「洪水」、「ノアの泥酔」の三場面である。創世記ではこの三つの場面は、「洪水」、「煩祭」、「泥酔」となっているのだが、ミケランジェロはその順序を変えたわけである。

第30師団及び第102師団は、いずれも第35軍指揮下の部隊として、第30師団はミンダナオ島に、第102師団はセブ、ネグロス、パラワン、パナイ、ボホール島からなるビサヤ諸島に配置されていた。この中から、第30師団から一個連隊(41連隊)が、第102師団から二個大隊がレイテ島に派遣されることとなり、10月26日から同30日にかけて、オルモックに上陸した。その直後には、第一師団がオルモックに上陸している。

安倍晋三総理の「自衛隊は違憲」発言

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国会の質疑の中で安倍晋三総理大臣が「自衛隊は違憲」という発言をしたそうだ。といっても、本人がそう思っているということではなく、日本の憲法学者の大部分がそう思っているということに言及したうえで、もしそうなら自衛隊を憲法と適合させるために、憲法のほうを改めるべきだと言ったということである。

吟便:池大雅の十便図

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池大雅の十便図から「吟便」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「吟便」は次のとおりである。

  兩扉無意對山開  兩扉意無くして山に對して開く
  不去尋詩詩自來  去らずして詩を尋ぬれば詩自づから來る
  莫怪囊慳題詠富  囊慳を怪しむ莫れ富に題詠するを
  只因家住小蓬萊  只だ家住の小蓬萊たるに因るのみ

知への意思:フーコーの「性の歴史」

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「知への意思」は、今日では三巻からなる「性の歴史」の第一巻という位置づけになっているが、もともとのフーコーの構想では、五巻からなる「性の歴史」の序論として構想された。その本体とも言える五巻の構成は、「(一)肉体と身体」、「(二)少年十字軍」、「(三)女と母とヒステリー患者」、「(四)倒錯者たち」、「(五)人口と種族」となるはずであった(渡辺守章による「知への意思」訳者あとがき)。これら五巻それぞれがテーマとしたことがらは、フーコー言うところの「セクシュアリテ」が発現したものである。このセクシュアリテは、「知への意思」のなかでは、「女の身体のヒステリー化」、「子供の性の教育化」、「生殖行為の社会的管理化」、「倒錯的快楽の精神医学への組み込み」という形で整理されているが、この整理の仕方は、原構想における五巻の構成にほぼ対応している。つまり、「知への意思」における「女の身体のヒステリー化」が「(三)女と母とヒステリー患者」に、「子供の性の教育化」が「(二)少年十字軍」に、「生殖行為の社会的管理化」が「(五)人口と種族」に、「倒錯的快楽の精神医学への組み込み」が「(四)倒錯者たち」にそれぞれ対応し、これに性の自然的・生物学的な規定性としての「性=セックス」を、「(一)肉体と身体」という形でつけ加えることで、セクシュアリテを多面的に分析しようというのが、フーコーの当初の構想だったと考えられる(「性の歴史」のフランス語の原題は「セクシュアリテの歴史」である)。

朝敵揃:平家物語巻五

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相模の大庭影親が、頼朝が謀反の挙兵をしたこと、舅の北条時宗とともに平家の代官を討ったこと、その後大庭の反撃によって石橋山で敗北、安房へ逃れたことなどを、早馬で知らせてきた。これを聞いた平家の人々の反応は様々だったが、清盛は、池の禅尼の懇願をいれて頼朝の命を救ってやったので、忘恩に憤った。

少年H:降旗康男

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降旗康男の映画「少年H」は、妹尾河童の自伝的小説を映画化したものである。妹尾が小学六年生から中学生にかけての少年時代に体験した同時代の日本がテーマだ。その時代はちょうど太平洋戦争の開始から敗戦までの、戦争の時代に相当する。だから少年の目から見た戦争時代の日本を描いているということになるわけだが、その少年の時代を見る目は非常に批判的である。少年の目には、日本のやっている戦争は無謀きわまりなく、また、それに向き合っている大人たちの態度は欺瞞だらけに映る。そんなことから、作品全体から反戦のメッセージが感じられると言う具合に、少なくとも映画の作り方のうえでは、なっている。

釣便:池大雅の十便図

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池大雅の十便図から「釣便」図。もとになった李漁の漢詩「伊園十便」のうち「釣便」は次のとおりである。

ミノス:ブレイクの「神曲」への挿絵

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ダンテとヴィルジリオは、第一圏から第二圏へと降りてゆく。第二圏は、自分の意思でキリストの教えに背いた者たちが落ちてゆく最初の圏である。その入り口にはミノスと言う怪物が居座っていて、落ちてきた亡者たちに、それぞれ相応しい場所を割り当てる。

山子夫妻、落、松の諸子と遅めの新年会を兼ねて小宴を催した。場所は恵比寿ガーデンプレイスの高層ビル38階にある日本料理屋吉祥。約束の時間に一秒の狂いもなく着いて見ると、他の四人はすでに席に着いていた。挨拶をかわしながら自分の席に座る。そこは大きな窓の側にあるテーブル席で、眼下には東京の夜景が広がっている。窓は東の方向に向いているので、正面に東京タワーが、その左右には向かって右側から品川の高層ビル群とレインボーブリッジが、中央部分には赤坂辺りの高層ビル群が、そして左手には池袋や新宿の高層ビル群がつながっている。久しぶりに見る東京のスカイラインは、こうして品川辺りから新宿へかけて、切れ目なく続く高層ビル群の繋がりによって区切られているわけだ。その様子はまるで壮大なパノラマ絵巻を見るようであり、香港の夜景にも劣らぬ見事な眺めだった。

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原罪の話は、アダムとエヴァが神による禁断を破って智恵の木の実を食べた結果羞恥心を知るようになったこと、及び禁断を破った罪でエデンの楽園を追われることからなっている。ミケランジェロはこの二つの部分を一つの画面に共存させた。即ち蛇が巻きついた智恵の木を中心にして、その左側に禁断の木の実をとる場面、右側にエデンの園を追放される場面を並べて描いたわけである。

内田樹、中沢新一「日本の文脈」

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内田樹と中沢新一は同じ年の生まれだし、経歴にも似たようなところがあるので、古い付き合いでもおかしくないのだが、この対談のために会って話したのがはじめての出会いなのだそうだ。ちょっと話しただけで、すぐに仲良くなった。それは、お互い非常に似ているところがあるためで、その似ているところというのは、ふたりとも「男のおばさん」を自負している点だと言う。「男のおばさん」とはおかしな言葉に聞こえるが、要するに「おばさん」的な思考をする男という意味らしい。

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