ベッキー・バッシングは性差別か?

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タレントのベッキー(本名レベッカ・エリ・レイ・ヴォーン)が、妻帯者の男性と不倫したというのでスキャンダルとなり、散々なバッシングにあったうえで、芸能界から事実上追放されるという事態に追い込まれた。一方、不倫の相手方のタレント男性は、道義上の非難は浴びたものの、バッシングの程度はベッキーのように激しくはなく、芸能界から追放されるようなことはなかった。一方的に悪者にされ、世間に向かって深々と頭を下げて、謝りつづけるベッキーの姿だけが、印象に残った。その印象は無論後味の悪いもので、日頃芸能界などには関心のない筆者のような者の目にも、彼女のそうした姿が可哀そうに映ったものだ。

ベッキーの父親がイギリス人ということもあるのか、イギリスのメディア「ガーディアン」がこの問題を取り上げ、いくら不倫したとはいえ、女性のベッキーだけが処罰されて、相手の男性が処罰されないのは、性差別ではないか、との批判記事を載せた(Downfall of Japanese TV's girl next door highlights wider industry sexism)。

この記事は、日本の芸能界において、若い女性が置かれている立場について、興味深い分析を行っている。若い女性タレントは、芸能プロダクションによって、儲かる商品として製造される。だから商品価値を傷つけることになる可能性のある事柄はことごとく退けられる。最も重視されることは、女性タレントが誰に対しても恋人になる可能性を保ち続けることだ。それ故、彼女らは特定の恋人を持ってはならないと強要される。その強要は半端なものではなく、誓約書という形で、書面で誓約させられる。それを破れば制裁される。その制裁は、法廷への訴追という形をとることもある。先日はそうした訴追に対してある判決が出たが、それは、少なくとも20歳を超えた大人の女性に対して、恋人を持つなと強要するのは、憲法の定めた幸福追求権に違反し、無効だというものだった。しかし、こうした判決によって、日本の芸能界の姿勢が大きく変わることはないだろう。なぜなら、それは芸能界のみならず、日本社会を律している価値観のようなものを反映しているからだとこの記事は言い、その例として、先般、恋人を持たないというルールを破って世間に迷惑をかけたことにたいして、頭を丸めて謝罪したある女性タレントに言及した。

要するにこの記事は、今回のベッキー・バッシングの背景には、日本特有の価値観が働いていると分析し、その価値観とは、根深い女性差別を反映したものだと言っているわけである。

筆者の目には、今回の事態は女性差別もさることながら、日本社会のコンフォーミズムの現れのように映る。コンフォーミズムとは、ある特定の価値観に従って社会全体が統制されたように動き、そこからはみ出した者を異物として排除しようとする傾向のことである。そうしたコンフォーミズムの価値観のうちのひとつとして、女は女房持ちの男に手を出すなという不文律があるわけで、ベッキーはその不文律に違反したことで、かくも激しいバッシングを浴びた。そういうことなのだろうと思う。





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