昭和残侠伝:佐伯清

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「昭和残侠伝」は、「日本侠客伝」とともに高倉健主演のやくざ映画の代表的な作品である。ふたつとも、後にシリーズ化されて、いわゆる東映やくざ映画のドル箱となった。

この二つの作品は非常によく似ている。伝統やくざと新興やくざの抗争をテーマにしていること、新興やくざの台頭に押され気味の伝統やくざの一家に、組のホープが兵役から戻ってきて、組の建て直しに尽力するが、新興やくざの嫌がらせを散々受け、ついに堪忍袋の緒を切らして、組のホープが相手の一家に殴りこみをかけるという筋書きは、両方に共通している。舞台設定も、一方が深川でもう一方が浅草と、どちらも東京の下町である。多少違うのは、一方が戦争中のこととなっているのに対して、他方が敗戦直後の混沌とした時代を背景としていることだ。

「日本侠客伝」は、1965年の公開で、監督はマキノ雅弘だ。「昭和残侠伝」はその翌年に佐伯清が監督して劇場公開された。後発の佐伯が、マキノの映画の成功を見て、それを真似したと思われる。それにしては、真似の仕方が尋常ではない。筋書きから登場人物の描き方までそっくりなのである。コピーといってもよい。今ならパクリとして槍玉に挙げられるに違いない。ところが当時の日本は、そんなことに拘泥しなかった。著作権に神経質でなかったのか、当時の国民性が鷹揚だったのか、よくはわからない。とにかく面白ければ、それでよかったのだ。

この映画でも、新興やくざは、表面上は資本主義の経済原則を逆手にとってうまく立ち回っている経済やくざとして描かれている。そのやくざの親分を演じる水島道太郎は、「日本侠客伝」の安部徹ほどの陰影は感じさせないが、悪党ぶりは堂に入っている。市場のシェアを高める(縄張りを拡大する)ために、最初はダンピングまがいのやり口で顧客(闇市場の売人)の取り込みに精を出すが、そのうち悪の本性をむき出しにして悪逆不動の限りを尽くす。この辺は、戦後の寡占企業も顔負けの活躍ぶりだ。しかも、警察まで抱き込むところは、大変な知能犯である(この映画の警察は、新興やくざの用心棒として戯画化されている。軍隊のほうは、戦後が舞台ということもあって、出てこない)。

一方、高倉健演じる伝統やくざのホープは、義理と人情に厚い古風な人間として描かれている。古きよき時代のあるべき人間像を全身で体現しているような人間だ。そんな人間にとって、義理と人情を踏みにじり、私益のためにはどんな手段も選ばない新興やくざは、人間の屑として映る。そんな屑は、放っておけばよいかというと、そういうわけにも行かない。そいつらのほうからなにかとちょっかいを出してくるからだ。それでも最初のころは腰を低くして、揉め事を起こさないように記を配っていたが、親分が射殺されたのに続いて、組のものが次々と酷い目に会い、また、大切な仕事をメチャクチャにされて、遂に堪忍袋の緒が切れる。そのあたりの話の展開振りは「日本侠客伝」とほとんど違わない。

高倉健演じるやくざのヒーローは、基本的には単身で相手の懐に乗り込んでゆく。この映画の場合には、池辺良演じる風来坊が、一宿一飯の恩義から助太刀をするのだが、その助太刀は池辺良の一方的な思い込みによるもので、高倉健のほうでは、それを期待しているわけではない。というのも、高倉健演じるやくざのヒーローは不死身であって、日本刀で切られようと、ピストルでぶちかまされようと、一向にひるむところがないのだ。彼には、死というものは全く問題にならない。そこがやくざ映画のシュールなところというべきだ。この不死身のヒーローが悪の権化たちを一刀両断にして切り殺していく、その場面が、悪党の理不尽さに散々イライラさせられてきた観客に、一服のカタルシス効果をもたらすというわけである。

この映画の中で高倉健が歌っている主題歌は大ヒットした。その後シリーズの各作品で歌い継がれ、そのたびに聞くものを感激させたのだったが、歌詞は作品ごとに多少異なっている。








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