忠度都落:平家物語巻第七

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木曽義仲に全面的に敗退した平家は、義仲が京都に迫るのを前に大混乱に陥り、宗盛を筆頭に、安徳天皇を擁して都落ちすることとなった。当面落ち行く先は西国である。平家は、人質代わりに後白河法皇も連れてゆこうとしたが、法皇はその動きを事前に察知し、鞍馬寺に逃れた。平家は京都を去るに当たって、一門や家来たちの宿所のほか京白河辺の民家数万戸にも火をかけ焼き払った。

落ち延びてゆく平家の人々の中で、平家物語は忠度に特別のスポットライトをあてている。忠度は平家の人々の中でもとりわけ風流を解し、日頃藤原俊成に師事して歌を作っていた。このたび都を去るにあたり、もはや二度と京都に戻れぬことを覚悟した忠度は、自分の歌のたとえひとつなりとも、勅撰集に取り入れて欲しいと希望し、師でありかつ選者でもあった俊成のもとをたずね、別れの挨拶をするとともに、できうれば自分の歌を勅撰集に採用して欲しいと懇願する。師の俊成は、その志に感服して、かならずや希望をかなえようと約束する。

~薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎童一人、わが身共に七騎取つて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸をとぢて開かず。忠度と名のり給へば、「落人帰りきたりとて、その内騒ぎあへり。薩摩守馬よりおり、みづからたからかにの給ひけるは、「別の子細候はず。三位殿に申すべき事あッて、忠度がかへり参つて候。門をひらかれず共、此きはまで立ちよらせ給へ」との給へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門をあけて対面あり。事の体何となう哀也。

~薩摩守の給ひけるは、「年来申し承はッて後、愚ならぬ御事におもひ参らせ候へども、この二三年は、京都の騒ぎ、国々のみだれ、併しながら当家の身の上の事に候間、粗略を存ぜずといへ共、つねに参りよる事も候はず。君既に都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はやつき候ひぬ。撰集のあるべき由承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なり共御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世のみだれいできて、其沙汰なく候条、ただ一身の歎と存じ候。世しづまり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。是に候ふ巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なり共御恩を蒙りて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ」とて、日ごろ読み置かれたる歌共のなかに、秀歌とおぼしきを百余首書きあつめられたる巻物を、今はとて打つ立たれける時、是をとッてもたれたりしが、鎧のひきあはせより取りいでて、俊成卿に奉る。

~三位是をあけてみて、「かかるわすれがたみを給りをき候ひぬる上は、ゆめゆめそらくを存ずまじう候。御疑)あるべからず。さても只今の御渡こそ、情もすぐれて深う、哀も殊に思ひしられて、感涙おさへがたう候へ」との給へば、薩摩守悦びて、「今は西海の浪の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、浮世に思ひ置く事候はず。さらばいとま申して」とて、馬にうちのり甲の緒をしめ、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位うしろを遥にみ送つてたたれたれば、忠度の声とおぼしくて、「前途程遠し、思を鴈山の夕の雲に馳す」と、たからかに口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残惜しうおぼえて、涙ををさへてぞ入り給ふ。


俊成は忠度との約束をきちんと守った。千載和歌集を編纂する際に、彼の歌を、一首だけではあるが、読人知らずとしていれてやったのである。

~其後世しづまッて、千載集を撰ぜられけるに、忠度の有りしあり様、いひをきしことの葉、今更思ひ出でて哀也ければ、彼巻物のうちにさりぬべき歌いくらもありけれ共、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷花といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、読人しらずと入れられける。
  さざなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
其身朝敵となりにし上は、子細に及ばずといひながら、恨めしかりし事共也。


なお、忠度の母は、平家物語「鱸」の段で、忠盛との間柄を女房たちにからかわれたときに洒落た歌を読んで返したと言う女性である。父親の忠盛も歌を読んだ。清盛とその直系の子孫には歌を読むような人は見当たらないが、忠度は両親の持っていた歌心を引き継いでいたわけである。





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