ギリシャ人における性の経験

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フーコーは「性の歴史」の中で、ギリシャ人の性についての経験を四つの「主軸」にもとづいて考察している。その四つとは、「身体との関係、妻との関係、若者との関係、そして真理との関係」(「快楽の活用」田村俶訳、以下同じ)である。身体との関係とは、性を自己管理のひとつの形式として捉えるものであり、そこでは性は快楽をもたらすものであるとともに、それ以上に自己鍛錬の問題として現れる。妻との関係は家庭管理の、若者との関係は同性愛の、それぞれ問題であるが、これらの領域では権力の要素が強く働いているとされる。最後の真理との関係とは、性を単なる快楽の問題としてではなく、真理の問題として捉えるものであり、これこそが性をめぐるギリシャ人のもっともユニークな態度なのだとフーコーは考えているようなのである。

ともあれフーコーは、以上四つの主軸に基づいて性を考えながら、性をめぐる人間の経験が、古典古代ギリシャからキリスト教道徳の時代(18世紀ヨーロッパもこの範囲に含められる)にかけてどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか、について考察する。その際フーコーは、性道徳を、「行為の法令化への、しかも許容や禁止の厳密な規定への方向付け」と「自己の実践と、鍛錬の問題への方向付け」とに大きく区分しているが、ギリシャ人の性道徳は後者への方向付けがはるかに著しいとしている。つまり古代のギリシャ人は、キリスト教時代のヨーロッパ人よりも、はるかに主体的だったというふうに、フーコーは考えているようなのである。

そこでギリシャ人が<性>をどのように認識していたかが問題となる。このことについてフーコーは、「<性現象(セクシュアリテ)>とか<肉欲>といった概念をギリシャ人に(さらにラテン人の場合にも)見つけ出すのは、ずいぶん骨が折れるだろう」(第一章)と言っているが、これは<セクシュアリテ>や<肉欲>をタブーとしてあつかうキリスト教的な道徳規範と、ギリシャ人たちが無縁だったということを意味している。ギリシャ人たちにとっては、<性>は別に「許容や禁止の厳密な方向付け」の対象ではなく、人間としてごく自然な事柄であった。ギリシャ人にとっては、性欲の問題は食欲を満足させるのと根本的に異なった問題ではなく、人間が生きていくうえでの自然な事柄なのであり、それを満足させることを巡ってなんら道徳的な制約が問題となることはなかった。問題となるとすれば、食欲の過大な満足が暴飲暴食の悪徳につながるのと同じような意味で、過剰な性欲の追求は、自制心を欠いた行為だとされるという点で問題なのであった。

ギリシャ人にとって<性>とは、「のちにキリスト教の教導師たちがするようには、{営みの}求めと拒絶、最初の愛撫、交わりの様式、感じられる快楽、その快楽に与えるのが適切な結論、こうしたものの働きを規制するこころづもり」とは無縁だったのであり、もっぱら性の営みを適度な回数に押さえるという量的な規制の問題だった。「ギリシャ人の道徳にとっても医学にとっても人々を相互に区別するものといえば、彼らが導かれる対象の型や彼らが好む性的実践の様式などではない。何よりも、その実践の激しさの度合いなのである。分割は最小と最大、つまり節制と不節制のあいだに存在する」というのである。かくして性をめぐるギリシャ人の経験は、節度の問題に還元されるわけである。

性をめぐって節度が問題となるのは、性の快楽の自然な激しさのせいで、「自然がアフロディジア(性)の快楽を下等で従属的で条件づけられたときに定めた限度を越えようとする」傾向があるからである。従って人間は自らの性の実践を制御できなければならない。でなければ彼は、性の快楽に従属した下等な人間として自己を形成するであろう。この場合、過度と受動性とが、「アフロディジアの実践における不道徳性の二つの主要形式である」。過度に性の快楽にふけるだけではなく、受動的になること、つまり人の快楽の対象となることも、自制心にかけた行為とされているわけである。

過度に性の快楽に耽ることなく、適度にそれを楽しむ、それがギリシャ人にとって望ましい<性>のあり方だった。ギリシャ人にとっては、性をどのようにコントロールするかが問題なのであり、そのコントロールを通じて快楽を、自分の豊かな人生のために活用することこそが重大なことだったわけである。ここから、「快楽の活用」という、この書物の題名ともなった概念が、ギリシャ人の<性>を論じる際のキー概念となる。快楽とは、それを活用することで、人生を豊かにしてくれる香辛料のようなものと言ってよいかもしれない。だが、快楽の活用には、それを越えた効用もある。それは、ギリシャ人の考える望ましい人間像とも大きく結びついている。ギリシャ人にとっては、自立した完全な人間とは、自由人の男性である。自由を剥奪されている奴隷や、男性の支配下にある女性はもとより、成人の保護の下にある若者も、まともな人間としては見られていない。まともな人間とは、あくまでも自由な男性市民なのである。

だから、快楽の活用という概念のもとで考察の対象となるのは、あくまでも自由な男性の<性>を巡っての領域に限定される。その自由な男性市民の、自由な人間としての生き方を豊かにしてくれるもの、それこそが「快楽の活用」のもつ効能なのである。これに対して、奴隷や女性には、快楽の活用という概念は無縁である。彼らあるいは彼女らは、支配的な立場にある自由な男性の快楽の対象となる限りにおいて、みずからの快楽をコントロールしたり、それを活用する余地はないわけだ。活用という概念には主体というサブ概念が付帯しているが、奴隷や女性は快楽の客体であって、主体となることはないからである。未成年の若者が主体となりえないのは、その未熟性の故である。

そこで「快楽の活用」が問題となるわけであるが、フーコーは、ギリシャ人にとってのもっとも望ましい快楽の活用とは、適度の節制に裏打ちされたものであったとしている。慎重さと思慮と計算が、この節制を構成している要素であるが、これらを通じて自己の欲望を調整すること、それこそが適切な「快楽の活用」を約束させるというのである。「節制とは快楽の一つの術、一つの実践であり、欲求に根ざす快楽を<活用する>ことで、この実践は自分に限度を設ける力をもちうる」というわけである。さてこそソクラテスも言うように、「飢えと渇きと愛欲と眠気こそは、おいしく食い、うまく飲み、心地よく交わり、休息も睡眠も楽しくなる唯一の原因なのであって、よく待ち、こうした欲求に耐えてはじめて、それを充足することに最大の喜びがともなうのである」

節制は自己鍛錬を前提とする。この自己鍛錬をフーコーは、エンクラテイアというギリシャ語で説明している。この言葉は、文字通りには、「克己」を意味する言葉だが、「克己」が「ソフロシュネー(節制)の条件であり、個人が節制をわきまえる人となるために自己自身にたいして行うべき働きかけや抑制の形式である」限りにおいて、自己鍛錬をあらわすのに相応しい言葉となる。

古代ギリシャの自由な男性市民は、この自己鍛錬を通じて、望ましいギリシャ市民として自己を形成して行くのである。この自己鍛錬およびその条件としての節制は、自分自身に向けられるときには自分自身を取り締まることとしての養生術につながり、妻や家族を対象とするときには家庭管理術となり、国家の一員として国家の統治に参加することに向けられるときには統治術と結びつくわけである。このすべての領域について、問題となるのは自由な男性市民としてのギリシャ人である。そのようなものだけが、自己鍛錬の主体となりうる。しかのみならず、正しい認識の主体ともなるのであって、そうした主体だけが、真理を正しく認識することが出来るのである。従ってギリシャ人にとっての自己鍛錬とは、あらゆる領域を通して主体的な存在者であるための前提をなすとともに、真理を把握できる資格を持った認識主体となるための条件ともいえるのである。

関連サイト:知の快楽  






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