征夷将軍院宣:平家物語巻第八

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(平家物語から 征夷将軍院宣)

関東に覇権を確立した頼朝に征夷将軍に任命するとの院宣が下される。本来なら頼朝が京都へ院宣を賜りに赴くのが筋だが、頼朝は鎌倉に居ながらにして、朝廷から遣わされた使者の手から院宣を頂戴した。使者は中原泰定である。頼朝は鶴が丘八幡宮で泰定を迎える。泰定は頼朝の威儀に圧倒され、臣下の申し出までする始末。平家物語「征夷将軍院宣」は、そんな頼朝の威風堂々たるさまを語る。

~さる程に鎌倉の前右兵衛佐頼朝、ゐながら征夷将軍の院宣を蒙る。御使は左史生中原泰定とぞ聞えし。十月十四日関東へ下着。兵衛佐の給けるは、「頼朝年来勅勘を蒙りたりしかども、今武勇の名誉長ぜるによッて、ゐながら征夷将軍の院宣を蒙る。いかんが私で受け取り奉るべき。若宮の社にて給はらん」とて、若宮へ参り向はれけり。八幡は鶴が岡にたたせ給へり。地形石清水に違はず。廻廊あり、楼門あり、つくり道十余町見くだしたり。「抑院宣をば誰してか受け取り奉るべき」と評定あり。「三浦介義澄して受け取り奉るべし。其故は、八ケ国に聞えたりし弓矢とり、三浦平太郎為嗣が末葉也。其上父大介は、君の御ために命をすてたる兵なれば、彼義明が黄泉の迷暗をてらさむがため」とぞ聞えし。

~院宣の御使泰定は、家子二人、郎等十人具したり。院宣をば文袋に入れて、雑色が頸にぞかけさせたりける。三浦介義澄も家子二人、郎等十人具したり。二人の家子は、和田三郎宗実・比企の藤四郎能員なり。十人の郎等をば大名十人して、俄に一人づつ仕立てけり。三浦の介が其日の装束には、褐の直垂に、黒糸威の鎧きて、いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたる大中黒の矢をひ負ひ、しげどうの弓脇にはさみ、甲をぬぎ高ひもにかけ、腰をかがめて院宣を受け取る。泰定「院宣受け取り奉る人はいかなる人ぞ、名のれや」といひければ、三浦介とは名のらで、本名を三浦の荒次郎義澄とこそ名乗つたれ。院宣ば、乱箱に入れられたり。兵衛佐に奉る。ややあッて、乱箱をば返されけり。おもかりければ、泰定是をあけて見るに、沙金百両入れられたり。若宮の拝殿にして、泰定に酒をすすめらる。斎院次官親義陪膳す。五位一人役送をつとむ。馬三疋ひかる。一疋に鞍置いたり。大宮のさぶらひたッし工藤一臈祐経是をひく。ふるき萱屋をしつらうて、入れられたり。厚綿のきぬ二両、小袖十重、長持に入れてまうけたり。紺藍摺白布千端をつめり。盃飯ゆたかにして美麗なり。

~次日兵衛佐の館へ向ふ。内外に侍あり、ともに十六間なり。外侍には家子郎等肩をならべ、膝を組てなみゐたり。内侍には一門源氏上座して、末座に大名小名なみゐたり。源氏の座上に泰定を据ゑらる。良あッて寝殿へ向ふ。ひろ廂に紫縁の畳をしひて、泰定を据ゑらる。うへには高麗縁の畳をしき、御簾たかくあげさせ、兵衛佐どの出でられたり。布衣に立烏帽子也。顔大に、せい低かりけり。容貌悠美にして、言語分明也。「平家頼朝が威勢に恐れて宮こを落ち、その跡に木曾の冠者、十郎蔵人うちいりて、わが高名がほに官加階をおもふ様になり、おもふさまに国をきらひ申す条、奇怪也。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹四郎高義が常陸介になッて候とて、頼朝が命にしたがはず。いそぎ追討すべきよしの院宣を給はるべう候」。左史生申しけるは、「今度泰定も名符参らすべう候が、御使で候へば、先づ罷上りて、やがてしたためて参らすべう候。おととで候史の大夫重能も其義を申し候」。兵衛佐笑つて、「当時頼朝が身として、各の名符思ひもよらず。さりながら、げにも申されば、さこそ存ぜめ」とぞの給ひける。軈今日上洛すべきよし申しければ、けふばかりは、逗留あるべしとて留めらる。

~次日兵衛佐の館へ向ふ。萌黄の糸威の腹巻一両、白うつくッたる太刀一振、しげどうの弓、野矢そへてたぶ。馬十三疋ひかる。三疋に鞍置いたり。家子郎等十二人に、直垂・小袖・大口・馬鞍に及び、荷懸駄卅疋ありけり。鎌倉出の宿より鏡の宿にいたるまで、宿々に十石づつの米を置かる。たくさんなるによッて、施行にひきけるとぞ聞(きこ)えし。


頼朝が帰郷する泰定に、多大な餞を与えたばかりか、途中の宿々でのあつい接待まで段取りしてやったのは、自分の支配が東国全土に及んでいることを誇示するためでもあったと考えられる。

なお、頼朝が顔は大きく背は低いが物腰は優雅だと言っているのが面白い。義経が小男だったとは、さまざまなところで言及されているが、頼朝が小男と指摘した例は他にあるだろうか。神護寺所蔵の肖像画などからは、小男のイメージは全く伝わってこない。





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