処女の泉:イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンの1960年の作品「処女の泉」は、いかにもキリスト教らしい信仰の問題をテーマにしているにもかかわらず、前作の「野いちご」に続き、欧米諸国のほか日本でもヒットした。神の沈黙という重い宗教的なテーマは、キリスト教徒にとってはなじみの深いものだが、日本人には、ほとんど無縁な事柄と言える。それなのにこの映画は日本人にも受け入れられた、というので、映画史上では画期的な作品の一つに数えられる。

両親によって、眼に入れても痛くないほどの慈しみを以て愛されていた少女が、森の中でヤギ飼いの三人組に襲われて、強姦された上で殺され、着ていたものをはがされて裸で放置される。犯行後この三人組は、少女の両親の館に一夜の宿を求めるのだが、少女から奪った衣装を売りつけようとして、自分らが少女を殺したことを両親に悟られる。そこで怒りに燃えた父親が、三人組(そのうちの一人は子ども)を一人残らず殺して、少女の死の復習を遂げるというのが映画のあらすじだ。

あらすじ自体は単純なものだが、父親(マックス・フォン・シドー)の娘への愛と、娘を殺されたことに対する怒りが執念深く表現される。父親は、いささかも迷うことなく、犯人たちの殺害を決意するのだが、ただ怒りに駆られて激情的に殺害するのではない。神の許しを乞うたうえで、できうれば神の祝福を受けながら、犯人の殺害を行いたい。父親にとって犯人の殺害は、娘の復讐というにとどまらず、宗教的な儀式としての性格を帯びるのだ。その証しというかのように、父親は殺害行為に先立ち、森の中に赴いて、聖なる木から枝を払い、その枝でもって自分の身を清めてから行動に移る。犯人たちの枕もとに立ち、彼等の目覚めるのを待って襲い掛かるのだ。父親が犯人たちを殺すシーンは、娘が強姦されるシーンと並んで、ものすごい迫力にあふれている。

犯人殺害後、父親は娘の遺体が横たわる森の中に赴く。インゲルという腹の大きな女が案内するのだが、この女は娘に対する屈折した感情を抱いていて、娘が悪党たちに強姦され殺される現場を、ざまあみろといった顔で眺めていたのである。この女はまた、魔女の素質があるようにも描かれている。女が娘と一緒に森の中を馬に乗って進んでいるときに、水車小屋で魔法使いのような老人と出会うのだが、その老人がこの女をみて、お前はわしと同じ匂いがすると言うのである。もっともこの老人も、腹の大きな女も、それ以上の存在感は見せない。

父親は娘の遺体の傍らで、自分の運命を呪い、また神を呪う。あなたは見ておられたはずなのに、なぜそれを自分に知らせてくれなかったのか。神よなぜ沈黙したまうのか。

これは神の沈黙の問題として、キリスト教徒にとっては、古来信仰の根幹にかかわるとされてきた事柄だ。遠藤周作の小説「沈黙」もこれをテーマに取り上げている。遠藤はこの小説によってノーベル賞の候補にもなったくらいなのだが、それは神の沈黙というテーマを、世界の周縁の日本人が取り上げたことが、欧米人には珍しく映ったからだと言われている。

結局父親は信仰を踏み外すことなく、神への感謝を言い続ける。彼はその感謝の印として、娘の遺体の横たわっていた地に、石とセメントで作った教会を立てようと約束するのである。すると、娘の横たわっていた地面から、泉が湧き出してくる。これは奇跡のしるしなのだろう。神は父親の信仰をよしとせられたのだ。

こんなわけでこの映画は、きわめて宗教的な色彩の強い作品である。末尾に奇跡が現れるのに対応するように、映画のはじめにはキリストの磔刑像が映し出される。「第七の封印」で出てきた、あのゆがんだ顔のキリスト像である。






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