仮面 / ペルソナ(Persona):イングマル・ベルイマン

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イングマル・ベルイマンは「第七の封印」以後宗教的なテーマを描いた作品を作り続けてきたが、「仮面 / ペルソナ」は一転して、宗教とはかならずしも結びつかない、人間同士の葛藤を描いた作品だ。その人間同士の葛藤は、心と心が直接ぶつかり合うのではなく、仮面を通じて展開する。外面と内面が一致しない二人の人間同士が、外面のぶつかりあいを通じて内面のぶつかり合いに至った挙句、外面と内面とがねじれあうように融合してしまう。外面はそのままで内面を交換する、あるいは内面はそのままで外面を交換する。なんとも不可解な事態に陥った二人の人間(女性)の、不思議な関係を描いた映画なのである。

題名にある「ペルソナ」は、人間の人格という意味と、仮面という意味の、二つの意味を持っている。人格という意味では、それは人間の内面をあらわすが、仮面という意味では人間の外面をあらわす。普通の人間は外面を通じてかかわりあう。その係わり合いを通じて他者の内面を理解するのであるが、もし、相手の外面(顔と言ってよい)がその人の内面(心と言ってよい)と一致していなければ、彼あるいは彼女の顔を通じて、その心を理解するということは出来ない。理解できないにかかわらず、係わり合いをつづけるとどのようなことになるか。この映画はそんな疑問をテーマにしているようである。とにかくわかりにくい。

失語症に陥った女優を、ある看護婦が担当する。病院の院長はその看護婦をつけて女優を自分の別荘で転地療養させるように計らう。別荘は海辺にある小さなキャビンだ。その小さなキャビンに二人きりになった彼女らは、そこで共同生活を始めるが、女優はあいかわらず言葉を発することはなく、看護婦が一方的に語りかけるという構図になる。看護婦は饒舌と言ってよいほどのおしゃべりで、しかも気がやさしい、つまり単純な性格なのだ。失語症の患者とおしゃべりな看護婦という組み合わせで、はじめのうちは一方通行のような関係が続くが、互いに日常的に触れ合っているうちに、次第に相手に感情移入していくようになる。その挙句に、あるとき突然互いの内面を入れ替えてしまう、あるいはそれぞれの内面が相手の姿形としての外面に乗り移ってしまう。つまりペルソナを交換し合うわけである。

お互いのペルソナを交換し合ったあとで、女優の姿となった看護婦の心が、看護婦の姿となった女優に語りかける。しかし、そこに不思議な現象が起きる。女優の姿になった看護婦の心は、心のパフォーマンスにおいては看護婦のときのままなのだが、記憶の中身は女優のままなのだ。だから彼女は、看護婦の立場から女優としての自分を語るということになる。看護婦の姿になった女優についても同じ事が起きる。彼女の心は女優のままなのだが、記憶の中身は看護婦のものを引き継いでいる。その記憶の中身には、看護婦が少年としたセックスの記憶も含まれている。看護婦はその少年によって身体の中に精子を植え付けられた過去があるのだが、その折に味わった官能が、こんどは女優の官能としてよみがえるのだ。

ともあれ、人間の行動は心によってコントロールされるわけであるから、外面的な行動という点では、それまでの役割が逆転し、看護婦が患者となり、患者が看護婦となって、いままで自分の世話をしていたものを世話するようになる。こんな具合で、わけのわからない幻想的な世界が繰り広げられるのだが、最後の土壇場になって、じつはこれらすべてのイメージは、いまや患者となったもと看護婦の見た夢だったということが明らかにされる。すべてはやはり幻想だったのだというわけである。

ベルイマンはなぜこんな仕掛けをしたのか、その意図を正確に推し量ることは困難だが、ひとつの解釈として考えられるのは、宗教的な遠慮が働いたということである。つまりベルイマンは、これはよくある幻想の一つの例だと断ることで、幻想の内容を、宗教とは違う次元のところで、思い切り奔放なものにすることが出来たという解釈である。もしこんな奔放な出来事が幻想ではなく現実だと主張するとすれば、それは神を恐れぬ不敬なやりかただと非難されても仕方がない。ベルイマンはそう考えて、このような演出を施したのではないか。

なお、看護婦を演じたビビ・アンデルソンと女優を演じたリブ・ウルマンは、顔つきと雰囲気がよく似ていて、混同させられることがたびたびだった。まるで彼女らが映像のメタレベルで互いのペルソナを交換し合っているように、それは映った。







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