東方的三位一体論:中沢新一「はじまりのレーニン」

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中沢新一は、レーニンの思想の三つの源泉のひとつとして「東方的三位一体論」をあげた。これは古代の原始キリスト教の中で芽生えていた思想なのだが、その後キリスト教がカトリックとして体系化されるのに伴い大きく変容したのだった。それをドイツ哲学の父ともいえるヤーコブ・ベーメが再発見し、その後ヘーゲルがそれを哲学的に深化させ(弁証法というかたちで)、それを更にマルクスが唯物論的に逆立ちさせ(弁証法的唯物論として)、その逆立ちした弁証法をレーニンが受け継いで、あの独特の唯物論的世界観を作り上げた、というのが中沢の主張である。

三位一体論というのは、キリスト教に独特の世界観と言われる。これは神と子と精霊が一体となって世界を動かすという思想なのだが、その思想が「三位一体」という言葉で体系化されたのはカトリック教会によってであったということもあり、カトリック教会による三位一体論が、というかそれだけが、三位一体の正式の内容を表すとされていた。それを覆したのがヤーコブ・ベーメである。彼はカトリック教会とは違う視点から三位一体論を展開して見せた。その考え方には、古代の原始キリスト教が三位一体についてもっていた考え方がこだましていた。その原始的な三位一体論には、ユダヤ教を通じて東方的な世界観が反映していた。それを中沢は東方的三位一体論というわけだが、それをベーメが再発見し、それがきっかけとなって、ドイツ観念論とマルクスを通じてレーニンに流れ込んだ、というふうに中沢は考えるわけである。

議論をわかりやすくするために、まずカトリック教会による三位一体論の考え方を見ておく。カトリック教会が前提とする神とは、人間の世界とは次元を異にする超越的な存在である。神はこの世界を作った。世界を作ったということは、この世界の外側にあって、つまり超越したところにあって、外側から世界に働きかけたということを意味する。キリスト教の神は、あくまでもこの世界の外側にいる超越的な存在なのである。

しかし、神を超越的な存在とすると、人間との接点がなくなる。人間はこの世界とはまったくかかわりのない超越的な存在にかかわりあうことなどできない、ということになる。それでは宗教として都合の悪いことが沢山生じる。そこで、神と人間との接点となるようなものを作り出す必要に迫られた。その結果生み出されたのがイエス・キリストのイメージである。キリストは神の子どもとしてこの世に出現し、そのことによって神と人間とをつなげる役割を果たした。人間はキリストを通じて神の偉大さを知り、神によって生かされている喜びを感じることが出来た。一方神のほうも、子であるキリストを通じて、人間に対して自分の存在にともなうことがらを啓示することができた。

しかしキリストの生は一回限りであった。キリストが死んだ後は、神と人間とのつながりが再び断ち切られそうになった。そこでそのつながりを持続する為の工夫として精霊が編み出された。精霊は、キリストの死後もこの世界に止まり続け、人間を神とをつなげる役割を果たし続けている。その精霊が形をとったもの、それがカトリック教会なのである。カトリック教会は、神と子の意思を人間に伝え続けることを目的としてこの世に派遣された精霊が、見える形となって現れたものなのである。父と子と精霊とが一体となり、人間をあるべき道に止まらせる、それが三位一体論の核となる考え方だ。

キリスト教におけるカトリック教会の役割に異議を申し立てたのがルターである。ルターは、カトリック教会を否定することで、人間を神と直接向きあわせようとした。人間の前で神は、再び超越的な存在になったのである。この超越的な存在に向かって飛躍すること、これがルターがキリスト者たちに要求したことだった。この要求の前で、三位一体論は劇的な変容を蒙らざるを得なかった。少なくとも教会が精霊であることはできなくなったわけであるから、三位一体論を維持しようとすれば、精霊についてはもとより、父と子と精霊の関係についても、全く異なった物語が必要となった。ベーメはその必要に応えたわけである。そしてその答の中に、東方的な三位一体論の考え方が流れこんできたというわけなのである。

カトリック教会の解釈では、父である神は子(キリスト)及び精霊(教会)を通じてこの世界にかかわりあう。父とわれわれこの世界の人間とは、一応第三の存在によって隔てられているわけだ。ところがベーメは、神とこの世界との関係を、外在的なものとしてではなく、内在的なものとして捉えた。父である神は、世界の外側から世界に働きかけるのではなく、自分自身が展開することで世界を作り上げてゆく。世界とは神自身が自己展開したものなのだ。つまり神と世界とは内在的につながっているのだ。この思想が明確に現れるとライプニッツやスピノザの思想に近くなるわけだが、それをベーメが先取りしていた、と中沢は考えるのである。

東方的三位一体ということでいえば、父である神は、鏡に自分の姿を映し出すように、子であるキリストのうちに自分自身を映し出す。父である神と子であるキリストは、世界についての意思を持つが、この意思が精霊となって展開し、それに応じて世界も生成してゆく。世界とは精霊が展開したものなのだ。この精霊のことをヘーゲルは精神(=ガイスト)と捉え、精神が自己展開することで世界が生成してゆくと考えたわけだ。

マルクスはヘーゲルの考えを逆立ちさせ、というよりか頭で立っていたものを足で立たせ、この精神を物質と読み替えた。世界とはマルクスによれば、物質としての精霊が自己展開したものなのであり、我々人間の意識も物質の自己意識に他ならないのだ。マルクスはこうした立場から人間世界のあり方を「資本論」で展開して見せたわけである。だから「『資本論』は、精霊に満たされた書物なのだ」。一方、「ヘーゲルの『論理の学』は、精霊論的な三位一体論の哲学版と言って、ほぼ間違いない」というわけである。

レーニンは、精霊などという言葉は使わない。精神としての精霊でもなく、物質としての精霊でもなく、ずばり物質としての物質が自己展開して世界を生成させ、その生成のプロセスの一挿話として人類の意識が生まれてきた。そうレーニンはとらえるのである。





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