木曾最期:平家物語巻第九

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(平家物語絵巻から 木曾最期)

宇治川の戦いの後、義経の軍勢は京へ入る。それを義仲が賀茂の河原に迎え撃とうとしたが、勢いのある義経の軍に義仲の軍はまたもや敗走、義仲はついに主従七騎となって戦場を離脱、とりあえず瀬田のほうへと落ち延びて行く。その七騎の中には、女ながらいくさ上手と言われた巴御前も含まれていた。


義仲は戦場ではぐれた乳母子の今井兼平の帰趨が気になっていたのだが、近江の打出の浜で二人は落ち合う。今井をみた義仲は、懐かしさのあまり感極まって、いままで生きてきたのは汝の顔が見たかったからだと言う。今井は今井で、いままで討ち死にせずにきたのはあなたに会いたかっただという。こうして落ち合った義仲主従の周りに、残兵三百が加わり、多勢の義経軍を相手に最後の決戦を挑む。「木曾最期」の章は、その決戦の様子と、義仲の最後を語ったものである。

義仲は、どこまでもついてこようとする巴御前に、女を巻き添えにしたといわれては不本意だからと言って、味方の兵が次々と死んで主従五人までになったところで、戦場から離脱させる。巴はその言葉を受け、最後の力試しを披露して、一人東国へ落ち延びて行く。

ついに主従二人ばかりになった義仲と兼平は死力を尽くして戦っていたが、もはや命運あらずと悟った兼平が義仲に向かって、雑兵の手にかかるよりは、あそこで自害したまえと松原のほうを指す。義仲はいったんはそちらへ向かうが、兼平のことが気にかかってぐずぐずしている間に雑兵どもに囲まれ、ついに首をかかれてしまうのである。

~木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。山吹はいたはりあッて、都にとどまりぬ。中にも巴はいろ白く髪ながく、容顔まことにすぐれたり。ありがたきつよ弓、精兵、馬のうへ、かちだち、うち物もッては鬼にも神にもあはふどいふ一人当千の兵也。究竟のあら馬のり、悪所落し、いくさといへば、さねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名、肩をならぶるものなし。されば今度も、多くのものども落ちゆき討たれける中に、七騎が内まで巴は討たれざりけり。

~木曾は長坂をへて丹波路へおもむくとも聞えけり。又竜花越にかかッて北国へとも聞えけり。かかりしかども、今井が行方をきかばやとて、勢田の方へ落ちゆくほどに、今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぼつかなきに、都へとッて返す程に、大津の打出の浜にて、木曾殿にゆきあひたてまつる。互になか一町ばかりよりそれと見知つて、主従駒をはやめてよりあふたり。木曾殿今井が手をとッての給ひけるは、「義仲六条河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢが行方の恋しさに、多くの敵の中をかけわッて、是までは逃れたる也」。今井四郎、「御諚まことに忝なう候。兼平も勢田で打死つかまつるべう候ひつれども、御行方のおぼつかなさに、これまで参つて候」とぞ申しける。

~木曾殿「契はいまだくちせざりけり。義仲が勢は敵に押しへだてられ、山林に馳せちッて、此辺にもあるらんぞ。汝がまかせてもたせたる旗あげさせよ」との給へば、今井が旗を差し上げたり。京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつるものともなく、今井が旗を見つけて三百余騎ぞはせ集る。木曾大きに悦びて、「此勢あらばなどか最後のいくさせざるべき。ここにしぐらうで見ゆるはたが手やらん」。「甲斐の一条次郎殿とこそ承候へ」。「勢はいくらほどあるやらん」。「六千余騎とこそ聞え候へ」。「さてはよい敵ごさんなれ。おなじう死なば、よからう敵に駆け合うて、大勢の中でこそ打死をもせめ」とて、まッさきにこそすすみけれ。

~木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧きて、くわがたうッたる甲の緒しめ、いか物づくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさに射て少々のこッたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓もッて、聞ゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめて太う逞しいに、黄覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。あぶみふンばりたち上がり、大音声をあげて名のりけるは、「昔はききけん物を、木曾の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条の次郎とこそきけ。たがひによい敵ぞ。義仲うッて兵衛佐に見せよや」とて、喚いてかく。一条次郎、「只今名乗るは大将軍ぞ。あますなもの共、漏らすな若党、うてや」とて、大ぜいの中に取り籠めて、我うッとらんとぞすすみける。

~木曾三百余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文字に駆け破つて、うしろへつッといでたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこを破つてゆくほどに、土肥の次郎実平二千余騎でささへたり。其をも破つて行く程に、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中をかけわりかけわりゆく程に、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで巴は討たれざりけり。木曾殿「己は疾う疾う、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなンどいはれん事も然るべからず」との給ひけれ共、猶落ちもゆかざりけるが、あまりにいはれ奉りて、「あッぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、ひかへたる所に、武蔵国に、聞えたる大ぢから、御田の八郎師重、卅騎ばかりで出できたり。巴そのなかへかけ入り、御田の八郎におしならべ、むずととッてひき落し、わが乗つたる鞍の前輪に押しつけて、ちッとも働かさず、頸ねぢきッてすててンげり。其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ちぞゆく。手塚の太郎打死す。手塚の別当落ちにけり。

~今井四郎、木曾殿、只主従二騎になッての給ひけるは、「日来はなにともおぼえぬ鎧が、けふは重うなッたるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身も未だ疲れさせ給はず、御馬も弱り候はず。なにによッてか一両の御着背長をおもうは思し召し候べき。それは御方に御せいが候はねば、臆病でこそさは思し召し候へ。兼平一人候とも、余の武者千騎と思し召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、うッて行く程に、又新手の武者五十騎ばかり出できたり。「君はあの松原へ入らせ給へ。兼平は此敵防き候はん」と申しければ、木曾殿の給ひけるは、「義仲都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れくるは、汝と一所で死なんと思ふため也。所々で討たれんよりも、一所でこそ打死をもせめ」とて、馬の鼻をならべて駆けんとし給へば、今井四郎馬よりとびおり、主の馬の口にとり付いて申しけるは、「弓矢とりは年来日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつればながき疵にて候也。御身は疲れさせ給ひて候。つづく勢は候はず。敵に押しへだてられ、いふかひなき人の郎等にくみ落されさせ給て、討たれさせ給ひなば、「さばかり日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、それがしが郎等のうち奉つたる」なンど申さん事こそ口惜しう候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申しければ、木曾さらばとて、粟津の松原へぞかけ給ふ。

~今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入り、あぶみふンばりたち上がり、大音声あげて名乗りけるは、「日来は音にもききつらん、今は目にも見給へ、木曾殿の御めのと子、今井四郎兼平、生年卅三にまかりなる。さるものありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平うッて見参に入れよ」とて、射のこしたる八すぢの矢を、差し詰め引きつめ散々に射る。死生は知らず、やに矢庭にかたき八騎射落す。其後打物ぬいてあれに馳せあひ、これに馳あひ、きッてまはるに、面をあはするものぞなき。分どりあまたしたりけり。只「射とれや」とて、中にとりこめ、雨のふる様に射けれども、鎧よければうらかかず、あき間を射ねば手もおはず。

~木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正月廿一日入あひばかりの事なるに、うす氷ははッたりけり、深田ありとも知らずして、馬をざッとうち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり。煽れども煽れども、うてどもうてども働かず。今井が行方のおぼつかなさに、ふりあふぎ給へるうち甲を、三浦の石田次郎為久、追つかかッてよッぴゐてひやうふつと射る。痛手なれば、まッかうを馬のかしらにあててうつぶし給へる処に、石田が郎等二人落ちあふて、遂に木曾殿の頸をばとッてンげり。太刀のさきにつらぬき、たかく差し上げ、大音声をあげて、「この日来日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿を、三浦の石田次郎為久がうち奉りたるぞや」と名乗りければ、今井四郎いくさしけるが、是をきき、「いまはたれをかばはんとてかいくさをばすべき。是を見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口に含み、馬よりさかさまにとび落ち、貫ぬかッてぞうせにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。


木曽の最後を語る部分は、義仲と兼平の主従の結びつきを美しく感動的に語っており、平家物語の中でも出色の部分といえる。これまで義仲は無骨な田舎者として嘲笑の対象となってきたのであるが、この最後の場面に臨んで俄然人間的な陰影に満ちた人物像になっている。






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