さびしんぼう:大林宣彦

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大林宣彦の映画「さびしんぼう」は、所謂尾道三部作の最後の作品であり、前二作同様尾道を舞台とした青春映画である。ここでは、高校二年生の初恋が描かれている。その初恋がいかにも思春期の少年少女のういういしさに包まれており、見ていて思わずほんのりとした気分になってしまう。筆者のような、はるか大昔に青春を通り抜けた老人にとっても、このような映画を見せられると、自分の初恋のときの思いがありありとよみがえってきて、ついうっとりとしてしまう。筆者の初恋も、この映画の中の少年少女と同じく、十六歳の出来事だった。

前作の「時をかける少女」はSFタッチのファンタジーにあふれた作品だったが、この映画もまたファンタスティックだ。一人の少年が一人の少女を恋する。するとその少女とよく似た少女が、ピエロのような扮装をして少年の前に現れる。ピエロのほうは、少年以外の人の目には見えない幽霊のような存在だったり、現実の存在になったりして、変幻極まりない。ところがこのピエロの少女は、少年の恋した少女が仮の姿をとって現れたということがだんだんとわかってくる。それのみならず、このピエロは少年の母親の十六歳のときの姿だった、ということまでがわかる。どうやら、息子が恋をしたことを知って、母親が昔の姿に戻って見守りにやってきたようなのだ。だがそのことを、今の現実を生きている母親自身は知らない。

そんなわけで、この映画は、現実とファンタジーとが入り乱れて、どこがどうなっているのかよくわからないままに、少年の思いだけが暴走してゆく。少年の思いは一人の少女に向けられていて、ピエロのほうには向けられない。それどころかピエロを邪険に扱う。それでもピエロは少年にまとわり続ける。なにしろこのピエロは、少年の母親なのだから、少年と恋人になるわけにはいかない。しかしピエロは一方では少年が愛する少女の半身でもあるわけだから、二人の間には恋の感情も行き来する。という次第で、話はかなりもつれているのだが、あまりうるささを感じさせないのは、映画がコメディタッチで作られているからだ。「時をかける少女」がまじめさで貫かれたSFファンタジーなのに対して、これは軽い気持で作られたコミック・ファンタジーと言えよう。

尾道の町は、前作以上にきめ細かく描かれている。起伏が多い風景のほかに、港の景色もふんだんに盛り込まれている。少女が通学に利用している船は、島々を結ぶ連絡船のようだ。少女ら高校生たちは、自転車ごと船に乗り込んで、島々を往復するのである。港の一角には古い木造の仕舞屋が立ち並んでいて、なつかしい景観をかもし出している。こういう風景を見ると、何となく心が和むものである。

少年の愛する少女とピエロの少女を演じ分けた富田靖子がなかなかよい。高校生のういういしさと、ピエロの大胆さとを、一人二役で自然に演じ分けている。相手役の少年は、「時をかける少女」で未来からやって来た少年を演じた尾美としのりだ。前回ではまだ幼い表情が残っていたが、この映画ではかなり大人びた顔つきになっている。だからラストシーンで頭を剃って坊主になったところを写されても、あまり違和感がない。少年の父親の坊主役は小林稔侍が演じていたが、こちらは坊主頭ではない。頭に毛が生えているのは、毛坊主といえるから、真宗の坊主なのかもしれない。

映画のなかで、「人を恋するのはさびしい」という言葉が出てくる。「さびしんぼう」とはだから、恋をする当人のことかといえばそうではなく、恋される対象ということになっている。恋する人をさびしくさせる人、という意味だろうか。







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