PTAは何のためにあるのか

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某女性タレントが、安倍政権肝いりの「一億総活躍国民会議」に呼ばれ、その席上PTAに触れて、本来任意加入のはずなのに実際には強制的に加入させられている実態があるが、それはおかしいという旨の発言をしたというので、話題になっている。この女性タレントは母親としての立場から意見を述べたのだが、日頃同じような疑問を感じていたという母親たちから、多くの共感の声が寄せられているという。

PTAは、教育委員会と共に、戦後の教育改革の一環として、GPQの指示に基づいて導入された制度だ。教育委員会が学校教育を権力の統制から自由にしようという意図に基づくのに対し、PTAは教育の場における親のかかわりを強化することで、やはり自由な教育を保障しようとする意図に基づいていた。運営の自由を重んじる趣旨から、親の加入は任意であるとされている。それが実際には強制に近い運用になっていることに、この女性タレントは疑問を抱いたわけだ。

何故、強制なのか。それはPTAが自由な教育を考える場から、学校運営を円滑化するための機関になってきていることを反映したものだと考えられる。学校の現場を行政の末端と位置付ければ、行政への協力機関ということになり、その意味では、町内会と同じような機能を期待されるようになってきているわけだ。町内会も、建前上は任意加入ということになっており、主な目的は住民による自治の徹底とされているが、実際には行政の下請け機関になっている。それと同じようなことが、PTAについても生じているということなのだろう。

町内会は、行政の下請け機関として、住民の間のコンフォーミズムを支える機能が強まっている。さすがにあからさまな形で現れることは少ないが、町会を通じての住民への同調圧力には相当なものがある。同調圧力に逆らうような姿勢を示すと、影に日に圧力が高まってゆく。そのような住民は、村八部とまではいかないが、それに近い扱いを受けることともなる。日本社会にはもともとこうした同調圧力が働いていたと指摘できるが、それが近年はますます高まって来ているのではないか。PTAへの強制に近い加入圧力は、そうした傾向を如実に示しているのだと考えられる。

同調圧力という点では、学校教育のあり方もますますその傾向を高めている。個人の自立とか自主性の尊重ということよりも、集団への同調が優先される。生徒一人一人の能力を伸ばすことよりも、集団としての規律を優先させようという配慮があらゆる場面で行き渡っている。学校教育の現場は、個人の能力を高める場というよりも、個人をコンフォーミズムの型に嵌め込むための工場のようなものになってきつつある。

今回のこのささやかな騒ぎを通じて、今の日本の社会のあり方について、聊か考えさせられることがあったので、あえて触れてみた次第だ。





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