2016年5月アーカイブ

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仁和寺は、平安時代初期に創建された古い寺院であり、代々皇族が門跡をつとめる門跡寺院として高い格式を誇っていた。しかし15世紀後半に、応仁の乱によって全山が消失、その後徳川時代の初期寛永年間に再興された。再興に当たっては、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)を下賜され、往時の威容を取り戻した。

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悪鬼の頭目が、手下の悪鬼どもに命じて、ダンテとヴィルジリオを第六の嚢への道を案内させようとする。ダンテは彼らを恐れるあまり、二人だけで行こうとヴィルジリオに提案するが、ヴィルジリオは恐れるなと言ってダンテを励ます。かくして二人は、悪鬼たちに案内されて出発するのである。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノにやってきてから数年後(1487年ごろ)に、スフォルツァ公の宮廷画家になることに成功した。そこでダ・ヴィンチは、ミラノの貴顕たちを描いた肖像画を何点か製作した。「白貂を抱く婦人の肖像」と呼ばれるこの絵は、その代表的なもので、別名を「チェチリア・ガッレラーニの肖像」というように、スフォルツァ公ルードヴィコ・イル・モーロの寵姫と言われた女性を描いたものである。

村上春樹には、同じ一つの問題意識に従って一連の短編小説を書き、それを一冊の本にして刊行する傾向がある。「神の子供たちはみな踊る」とか「女のいない男たち」はその典型的なものだが、「回転木馬のデッドヒート」はこうした流れの仕事の嚆矢をなすものだと言えよう。

義経の力を恐れた頼朝は、義経殺害を決意する。義経のいる京都に大軍を派遣して、力で追討しようとも考えたが、それでは宇治・瀬田の橋がはずされ、京都が大混乱に陥るだろうから、自分の評判を悪くすると思って躊躇した。そこで刺客を京都に派遣して、義経を暗殺させようと企む。刺客に選ばれたのは、僧兵上がりの土佐坊昌俊であった。頼朝は昌俊に向かって、物詣をすると見せかけ、折りを見て義経を殺せと命令する。

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マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」は不思議な映画である。タクシーの運転手といえば、普通人の目には退屈な下積み仕事という印象にうつるが、当事者にしてみれば、結構変化に富んだ仕事であるらしい。単に客を目的地に運ぶだけではなく、客とのさまざまなやり取りを通じて社会の情勢にも敏感になるし、時には社会に対して鋭い批判意識を持つようにもなる。そればかりではない、運転手によっては、そうした批判意識を実現しようとする者も現れる。この映画のなかのタクシー・ドライバーもそうした一人だ。彼はタクシーの運転という自分の仕事を通じて、社会に対する鋭い批判意識に目覚め、それを実現する為にすさまじいエネルギーを傾注する。その結果どんな事件が巻き起こるか、この映画はそうしたどきどきさせるようなストーリー展開からなっている。タクシー・ドライバーもなかなか棄てた商売ではない、そんなふうに観客に思わせるわけである。

オバマが現職の米大統領として始めて広島を訪れた。歴史的な出来事には違いない。日本では、あわせて行われた伊勢・志麻サミットの話題が吹き飛ぶほどのインパクトを以て迎えられたし、世界中のメディアも注目した。日本のメディアにはこれを手放しに近い歓迎振りで好意的に論評するものが多い一方、アメリカのメディアはおおむね冷静に受け止めている。アメリカ国内で根強い原爆投下必要論を配慮してこの訪問を批判する論調はあまり見られないようだ。

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青蓮院は、平安時代末期に門跡寺院となり、その後皇室とかかわりの深い寺院としての伝統を有してきた。応仁の乱以来、度重なる戦火に焼かれ、徳川時代には豊臣氏との縁故のゆえに冷遇されたが、国宝の青不動像や室町時代に造営された庭園などを今日に伝えている。

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群がる悪鬼たちの中に頭目と思しき悪鬼がいて、それにヴィルジリオが声をかける。ヴィルジリオは悪鬼に恐れを抱かぬが、ダンテの方は恐怖に囚われる。そのダンテに、他の悪鬼たちが襲い掛かろうとすると、頭目の悪鬼がそれを制止する。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、30歳になった頃(1482年頃)フィレンツェを去ってミラノに赴いた。詳しい動機はわかっていないが、ミラノの支配者スフォルツァ公に自分の軍事技術を売り込むのが目的だったとも言われる。結局ダ・ヴィンチはスフォルツァ公に召抱えられることはなかった。その彼がミラノで最初に完成させた絵が、「岩窟の聖母」といわれるこの作品である。

読書誌「図書」の4月号に伊東光晴が寄稿し、その中で、自分に残された生涯最後の日々をガルブレイス論の執筆にあてたと書いていた。伊東は2012年の2月に倒れ心肺停止の状態に陥ったのだが、奇跡的に生き返り、なんとか執筆できるまでに回復した。この時85歳だった伊東は、自分に残された最後の日々をガルブレイスのために使いたいと決心したという。ガルブレイスに寄せる伊東の暑い思いが伝わってきて、筆者も是非読んでみたいと思い、ページを開いた次第だった。

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智積院は、もともと紀州根来寺の塔頭であったが、秀吉に全山焼き払われて一時存亡の危機に立たされた。だが、秀吉の死後、慶長6年(1601年)に、玄宥が家康から東山に土地を与えられて再興した。さらに、豊臣氏が滅亡した元和元年(1615年)に、秀吉の創建した祥雲禅寺をも与えられた。今日智積院に伝わる庭園は、この祥雲禅寺にあったもので、したがって秀吉の意向を幾分か反映している。この寺が保蔵している長谷川等伯父子の障壁画は、祥雲禅寺からの遺産である。

フーコー論の筆をひとまず擱くに当たって、フーコーの思想を俯瞰しなおしておこう。するとそこには、終始変らなかった部分と、時間の移り行きとともに変わっていった部分とが見えてくる。大事なことは、フーコーの思想の変らなかった部分、それは彼の思想の核心といえるものだが、それを明らかにすることだ。その上で変っていった部分を跡付けていくと、彼の思想の全体像が見えてくるのではないか。

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(平家物語絵巻から 腰越)

義経は、平家の総大将重衡を、生け捕りにしたまま鎌倉に運んだが、重衡を頼朝側に引き渡した後、自分自身は鎌倉入りを許されず、腰越に退却する。この思いがけない仕打ちに義経はどう対応していいかわからず、とりあえず頼朝宛の書状を書いて、それを頼朝の腹心大江広元に託した。腰越状と飛ばれる訴状である。その中で義経は、自分がいかに源氏再興のために働いたかを強調、そんな自分を梶原景時の讒言を信じて兄頼朝が遠ざけるのは道理に合わないといって、頼朝に諄々と訴えるのである。

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ミロス・フォアマン監督による1975年の「カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest)」は、精神病院の運営における官僚的側面とロボトミー手術の非人間性を描いた作品である。ロボトミー手術というのは、外科的手術を用いて精神疾患の治療をするというもので、自傷他害の傾向が強い患者を対象に実施されたものだ。具体的には、こめかみに穴をうがち、そこから頭蓋内に手術用具を入れて大脳前頭葉の一部を除去する。現在では、人体への傷害行為として禁忌となっているが、この映画が公開された当時にはまだ行われていた。そんなロボトミー手術の禁止に向かって、この映画は一定の影響を与えたと評価されている。

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金地院は、もともと応永年間に大業和尚が北山に開山した禅寺であったものを、徳川時代の初め(慶長年間)に崇伝和尚が南禅寺の塔頭として移建したものである。移建にあたって崇伝和尚は、本坊庭園とともにここにも小堀遠州に枯山水の庭園を作らせた。鶴亀庭園と呼ばれるものである。

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ダンテとヴィルジリオが更に悪鬼たちの様子を見ていると、悪鬼たちは、煮えたぎるプールに放り込んだ執政官を、スープの中の肉をフォークでつつくように、熊手でつついた。悪鬼たちは、その熊手をヴィルジリオにも向けたのだったが、ヴィルジリオは一向に恐れる様子を見せない。

来る伊勢志摩サミットで見逃せない意味を持つのは、G7首脳が揃って伊勢神宮を訪問することだ。このことについてはなぜか、日本の大手メディアは論評を控えており、海外のメディアも大きくはとりあげていない。おそらく伊勢神宮についての認識が、靖国神社ほどには広まっていなからだろう。そんななかで英誌エコノミストが興味ある論評をしている。後日の参考のために引用しておきたい。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、未完成のまま放棄した作品が多いことで知られている。「聖ヒエロニムス」と題されたこの作品もその一つである。彼の未完成癖の理由としてはいくつかのことがあげられているが、どうも彼には新たな関心の対象が現れると、それに夢中になってしまい、それまで従事していた仕事を忘れてしまうという傾向が強かったようだ。

「蛍、納屋を焼く、その他の短編」に収められた五つの短編の執筆時期は、一番古いのが「納屋を焼く」(1982年11月)、一番新しいのが「三つのドイツ幻想」(1984年3月)である。「羊をめぐる冒険」(1982年10月)を書き終えて、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(1985年6月)にとりかかる以前の時期だ。村上は、長編と短編を交互に書く癖があったようで、そのサイクルから言えば、「羊」と「世界」の二つの長編の執筆時期に挟まれた中間期に書かれたということになる。

安徳天皇が、祖母と共に入水した後、母の建礼門院も海に飛び込んだが、源氏方の侍に熊手で髪を引っ掛けられ、船に引き上げられてしまう。その後、教盛・経盛兄弟、資盛・有盛兄弟など平家一門の人々が、手に手をとって次々と海中に身を投じて死んだ。宗盛・清宗父子は、死に切れずにためらっていたところを、家臣によって海に突き落とされた。それでも彼らは、泳ぎの心得もあったりして、なかなか死なないでいる。そこを源氏方によって船に引き上げられ、生け捕りにされてしまう。

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ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ(The long goodbye)」は、レイモンド・チャンドラーの同名の小説を映画化したものである。原作は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にした一連の作品のうち最も人気の高いもので、日本でも古くからファンが多かった。近年は村上春樹の翻訳が出たりして、新たなブームを起こしている。筆者も村上春樹の翻訳を通じてその魅力を堪能した一人だ。

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蓮華寺は、もともと西八条塩小路(現在の京都駅付近)にあった時宗の寺院で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文二年(1662)加賀前田藩の家老今枝近義が現在地に再興した。現在地は、高野川の上流上高野の地にある。叡山電鉄三宅八幡駅で降りて、川沿いに数分歩いたところにある。

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ダンテとヴィルジリオは続いて第五嚢へ下りてゆく。そこは、生前汚職で私欲を肥やした者どもが落されてきたところ。彼らは悪鬼によってここまで運ばれ、煮えたぎる瀝青のプールに放り込まれるのである。二人がそのプールの縁に立ったところ、一人の悪鬼が人間を肩に担ぎあげながらやって来て、その人間を煮えたぎる瀝青の中に投げ込んだ。

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「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」は、ヴェロッキョの工房での宗教画から逸脱した世俗的な作品であり、レオナルドらしさが一層発揮されていると評されるものだ。もともとは、手の部分まで描かれていたが、後に下部が切断されて今日見るような形になった。そのもとの姿は、フランドル絵画の影響を強く感じさせるものであったと考えられる。上半身をやや斜めに向け、両手を膝の上にそろえて、顔を観客のほうへ向けるという構図は、フランドル絵画の著しい特徴である。

著者はこの本のあとがきの中で、西尾幹二なる学者について厳しい批判を行っている。著者はこの本の中で、ある学者の作成した資料を、その人の了承を得た上で掲載したのであるが、その同じ資料を西尾幹二なる学者が自分の本の中で無断で使用したのは、「常識では考えられない」といって批判しているのである。

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東福寺は、十三世紀の半ば頃に摂政九条道家によって造営された禅寺である。何度か火災にあったが、そのたびに再建され、大規模な寺院として伝統を保ってきた。しかし、庭園にはそう古いものはなく、徳川時代に作られた普門院開山堂前の庭園が有名である。

フーコーは「快楽の活用」の序文のなかで、計画を変更した後の「性の歴史」の構想について触れ、その第四巻には「肉体の告白」と題してキリスト教の性道徳の成立についての研究をあてることを予告していた。この計画はフーコーの死によって実現しなかったが、もし実現していたとしたら、それがどのようなものになったか、およその見当はつく。性について大らかな態度をとっていた古代古典ギリシャに始まり、結婚以外の場における性行為が次第に価値剥奪されてゆく帝政ローマ時代を経て、性そのものがついに禁止と抑圧の対象として形をとるようになった形跡をあきらかにすること、これがフーコーの目論見だったと思われるから、第四巻の内容は、もっぱら性が禁止と抑圧の対象となるその過程を抉り出すことに当てられただろうと思えるのである。

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(平家物語から 先帝御入水)

壇の浦の戦いは、当初は平家が圧倒的に優勢だった。だがやがて、空から白旗が舞い降りてきたり,海豚の大群が不思議な行動をしたりして、源氏の勝利が予言されると、それをきっかけにするように、源氏が攻勢に転じた。その様子に促されて、阿波重能が裏切ったのをはじめとして、四国、九州の武将も次々と源氏方に寝返った。

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「スケアクロウ( Scarecrow )」は、世の中からドロップアウトした二人の男の奇妙な友情を描いた映画だ。二人のうちの一人は刑務所を出たばかりで、預金の口座があるピッツバーグで人生のやり直しをしようと思っている。もう一人は、妻子を棄てて放浪していたが、五年ぶりに会いたくなって、妻子のいるデトロイトまで帰ろうと思っている。その二人が旅先で偶然出会って、行動を共にするようになり、さまざまな波乱を起こしながらついにデトロイトまでたどりつくと、そこには思いがけない事態が待ち受けていた、というものだ。

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大原三千院の参道奥にある宝泉院は、大原寺(勝林寺)の僧坊として、11世紀始めに創建された寺である。額縁庭園として知られるこの寺の庭園は、徳川時代の中ごろに作られた。額縁と言われるのは、客殿から庭園を見ると、額縁に収まったようにコンパクトに見えることによる。

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ダンテとヴィルジリオは第四の嚢に至り、その上方から底の方を見下すと、奇妙な姿のものどもがうごめいていた。彼らの頭は、ねじで巻かれたように、後のほうへねじ曲がり、その顔は自分の胸ではなく背中の上に位置し、流す涙が尻の割れ目を伝って落ちるのだった。この者どもはみな、生前は霊媒だったものたちだ。

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「ブノワの聖母」は「カーネーションの聖母」よりやや後に描かれたが、著しい進歩、というかレオナルドらしさが強く見られる作品である。バックを思い切り暗くすることで、モチーフの人物をダイナミックに浮かび上がらせるところは、その最たるものである。幼子の肉体や聖母の着物の襞に見られる陰影も、モチーフをダイナミックに表現する効果を生み出している。

村上春樹の初期の短編小説集「カンガルー日和」は、一般書店には出回らないある小さな雑誌に連載したものを集めたものだ。村上自身がいっているように、「他人の目を気にせずに、のんびりとした気持で楽しんで」書いたとあって、読むほうも気楽でしかも楽しい気分にさせられる。

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(平家物語絵巻から 壇ノ浦合戦)

平家物語のクライマックスは、壇ノ浦での源平決戦と、敗れた平家の象徴である安徳天皇が入水する場面である。屋島で平家に勝った源氏は、逃げる平家を追って壇の浦まで攻めてくる。その様子を見た熊野や安房の豪族が、次々と源氏に味方する。熊野の別当などは、源平どちらにつくべきか、鶏あわせをして占い、その結果源氏の旗色の鶏が勝ったので、源氏に味方する決心をつけた。こうして源氏の軍は膨れ上がり、船団の規模も平家をしのぐほどになる。

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映画「ダーティハリー(Dirty Harry)」は、クリント・イーストウッドを大スターにした作品である。イーストウッドといえば、テレビ西部劇「ローハイド」のロディ役として、我々団塊の世代には馴染みの俳優だったが、映画俳優としては芽が出ず、イタリアに渡っていわゆるマカロニウェスタンなどのB級映画ばかりに出ていたが、「ダーティハリー」の破天荒な刑事役を通じて、一躍国際的な人気を博した。

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いま三千院のある地には、もともとは往生極楽院という寺があった。そこへ、明治時代になって、門跡寺院として格式の高かった三千院が移ってきた。そんなわけで、いまでは、三千院として知られているが、この地に現存している建物や仏像などは、極楽往生院のものを引き継いでいる。庭園もそうで、三千院を象徴する聚碧園は、徳川時代に往生極楽園の庭園として作られたものである。

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マレボルジャの第三嚢は、聖物売買者たちの閉じ込められているところ。そこには、穴の開いた大きな石が至る所にあって、その穴の中に人間が逆さまに差し込まれている。そのため、石の上に覗いているのはふくらはぎばかり。それらは燃え盛る炎に焼かれている。そうした人間の一人がダンテの眼をひいたので、彼が誰であるかヴィルジリオに聞いたところ、ヴィルジリオは自分でその名を確かめろと言って、ダンテを抱きかかえてその人間の所に連れてゆく。

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「受胎告知」は「カーネーションの聖母」とともに、レオナルドの最初期の作品とされるが、レオナルドが単独で描いたのではなく、ヴェロッキョの工房における共同作品だろうと考えられる。

笠井潔と白井聡はいづれも、戦後日本に対して鋭い批判意識を持っている。笠井は戦後の日本が敗戦の事実にまともに向き合ってこなかったことで、いまだに国家として深刻な問題を抱えているとする。3,11は8.15をきちんと清算できていなかったことをあぶりだしたわけだが、このままでは同じようなことが繰り返され、第三の8.15も起りうるだろうと予言する。白井のほうも、日本は敗戦の意味を真剣に考えなかったおかげで、いまだに敗戦の亡霊に付きまとわれ、いわば永続敗戦の状態に置かれていると断言する。

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詩仙堂は、徳川時代初期の造園家として名高い石川丈山が、隠居所として寛永十八年(1641)に造営した。時に丈山は五十九歳、以後九十歳で死ぬまでここに隠居した。建物の内部に中国の三十六詩人の詩と狩野探幽に描かせた画像を掲げたことから「詩仙堂」と呼ばれるようになった。

紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ世界において、性倫理の領域で夫婦の結婚生活に価値付与がなされる一方で、あのソクラテスの愛に代表される伝統的な若者愛がますます軽視されてゆくようになる。だからといって、「若者愛の実践が消滅してしまったとか、価値剥奪の対象になってしまったとか、という意味ではない」(「自己への配慮」第六章、田村俶訳)とフーコーは言う。若者愛は積極的な価値剥奪の対象になったというよりも、その問題が陳腐化したのであり、それに寄せる人々の関心が後退したのである。このことをフーコーは若者愛の「脱問題化」と表現している。「男同士の愛の関係は、理論面と道徳面の激しい論議の焦点となるのを止めるのである」(同上)

那須与一の美技に興奮した平家の老兵が船の上で浮かれて踊り出す。与一はこれをも射殺する。すると怒った平家の兵が五人陸に上がって源氏に襲い掛かる。先頭は平家切っての剛のものたる悪七兵衛景清だ。景清は源氏方の三保谷十郎を馬から引き落として散々に痛めつける。たまらぬ三保谷は味方の影へと逃げ回る。あまりいいところがない平家の侍のなかで景清だけは例外で、勇猛な武将として描かれている。

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フレンチ・コネクションとは、フランスとつながりのある麻薬密売組織のことを言う。その麻薬密売組織を摘発しようとするニューヨーク市警の警察官たちの奮闘を描いたのが1971年の映画「フレンチ・コレクション」だ。実際にあった出来事をもとに作られたという。

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知恩院は、法然在世中よりこの地にあって布教の拠点となっていたが、山門や御影堂などの現存する伽藍群が造営されたのは徳川時代に入ってからのことである。大方丈と小方丈は寛永18年(1641)に作られ、その際に方丈庭園もあわせて作られた。庭園の造営を指導したのは、小堀遠州と縁のあった石立僧玉淵とされる。池泉回遊式庭園である。

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ダンテとヴィルジリオが、橋を渡って第二の嚢に入ると、堤の眼下には糞尿で満たされた溝が広がり、そこに大勢の亡霊がうごめいていた。彼らは皆、阿諛追従の罪によってここに落されてきたのだった。その一人アレッショ・インテルミネにダンテが声をかけると、彼は自分の舌の災いによってここに落される羽目になったと認めた。また、一人の女の姿をヴィルジリオが指さし、この女は売女であったが、どの客にも心にもないお世辞をいったことで、ここに落されたのだと語る。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にトスカナ地方の村ヴィンチに生まれ、17歳の頃、フィレンツェの画家・彫刻家アンドレア・デル・ヴェロッキョの工房に弟子入りして画家としての修行を始めた。レオナルドは早くから絵の才能を示し、ヴァザーリを通じて彼の才能を知ったヴェロッキョが、その才能を伸ばしてやるようにレオナルドの父親を説得したのだった。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、イタリア・ルネサンスを象徴するような人物であるばかりか、人類史に屹立する偉大な人間である。絵画の歴史においても、偉大な業績を残している。彼はイタリア・ルネサンス芸術を代表する画家であり、人類の絵画史上において最も偉大な画家ともいえるのだ。

村上春樹の初期の短編小説は、これまであまり注目されることがなかったと思うが、それに一定の重要性を認め、村上小説の原像とまで言って評価しているのが加藤典洋である。彼は最近の村上春樹論「村上春樹は、むずかしい」の中で、「中国行きのスロウ・ボート」以下三点の短編小説を取り上げ、それらを短編の「初期三部作」と呼んで、「戦う小説家」としての村上の原像が現れたものと評価している。筆者が村上の初期の短編小説を読んでみようという気になったのは、半分は加藤にそそのかされてのことである。

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(平家物語絵巻から 那須与一)

「那須与一」の章は、平家物語の中でもっとも演劇的な場面だ。海を挟んで対面した源平両軍の兵士たちの目の前で、船の上で扇をかざした若い女房と、これもまた若い関東武者が向かい合い、女房のかざした扇に向かって若武者が矢を射ると、それが見事に命中する。その様子を見守っていた源平両軍の人々は、互いに敵であることを忘れて拍手喝采する。戦場というよりは、野外劇場で行われるパフォーマンスを見るような具合だ。

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1967年公開の映画「卒業」は、一応アメリカン・ニューシネマの初期の傑作ということになっている。アメリカン・ニューシネマと言えば、ベトナム戦争を契機に盛り上がった政治不信を背景にして、社会への覚めた見方とか異議申し立てといったもので特徴づけられるが、この映画にそうした要素を認めるのは、多少の困難を伴うだろう。この映画が描いているのは、道徳の頽廃ともいうべきものだ。道徳の頽廃を描きながらそれを批判するわけでもない。むしろそれを受け入れたうえで、その頽廃ぶりを楽しんでいるフシがある。こんな投槍とも言える姿勢が、逆説的に社会批判につながっていると言えなくもないが、それにしては、この映画には曖昧なところが多すぎる。

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天授庵は、南禅寺の開山大明国師創建になる開山塔として歴応三年(1337)に創建された。山内でもっとも由緒のある寺である。文安四年(1447)の南禅寺大火以降荒廃したが、慶長七年(1602)細川幽斎によって再興され、それ以後細川家の菩提寺のような形となった。寺内の墓地には細川幽斎夫妻はじめ細川家の墓が多くある。

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地獄の第八圏はマレボルジャと言って、十の嚢に別れている。マレボルジャとは、「邪悪な嚢」という意味の言葉で、ダンテの造語である。本文にもあるとおり、円型の圏域全体の中心に深い穴があり、その穴の周りを、円周を重ねるようにして10の嚢が取り囲んでいる。ダンテたちは、其の円周状の嚢の一番外側の所に、ジェリオンの背中から降り立ったのである。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の最下列右側は地獄に落とされた人々を描いている。これら呪われた人々は、渡し守カロンによって船で三途の川を渡され、地獄の入口でミノスに引き渡される。するとミノスは、人々の罪状に応じて、地獄のなかの各部分に割り当てるのだ。そのミノスの有様をダンテの「神曲」は次のように記述している。

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1967年の映画「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)」は、アメリカン・ニューシネマの魁となった作品である。アメリカン・ニューシネマとは、1960年代の末近くから70年代半ば頃にかけて盛んに作られた一連の傾向的な作品群をいい、アメリカ社会への懐疑とか政治体制への反抗といったものを主なテーマにしている。その背後にはベトナム戦争があったわけで、この戦争に不正を感じた人々が、アメリカへの意義申し立ての表現として作ったという側面がある。したがって、ベトナム戦争が終わり、アメリカ社会に一定の落ち着きが戻ってくると、アメリカン・ニューシネマは下火になっていた。

米共和党の大統領候補予備選でトランプ指名が確定した。このままの勢いでいけば、もしかしたらトランプが大統領になるかもしれない。少なくともトランプはアメリカ人が好きなジョークであって、彼が大統領になるのはありえない、などと言っていられなくなってきた。

安部晋三政権が登場して以来、日本の報道の自由度が悪化し、いまや韓国以下の酷い状況だと国際NGOに評価されたことを、先日このブログでもとりあげた。それと同じようなことを、昨日(5月4日)の朝日の天声人語が話題にしていた。それによれば、かつては「報道の自由」の旗を高く掲げ、中国共産党や財界の不正に果敢に取り組んでいた香港の新聞や雑誌が、いまでは権力に抑圧されてすっかりおとなしくなってしまった。そんな香港に比べても、日本の報道の自由度は低く評価されていると言って、天声人語子はため息をついてみせたのである。

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南禅寺は、正応四年(1291)に亀山法皇が無関禅師を開山に迎えて創設した古い禅寺であり、いまでも臨済宗の大本山として広大な規模を誇っている。庭園としてもっとも見るべきは本坊方丈庭園で、これは寛永六年(1629)に、当時の南禅寺住職金地院崇伝が小堀遠州に依頼して作らせたものである。

「性」の歴史において、紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ世界の最大の特徴は、夫婦の結婚生活に多大な価値が付与されるようになったことだ。古代古典ギリシャにおいて結婚は、子孫を得ること及び家庭管理の対象として位置づけられていたのだったが、いまや市民として生きていくうえでの最大限に重要な要素に高まるのだ。それに伴って、結婚をめぐる言説も様変わりする。人々はそこに、夫婦生活のユニークな様式論の展開をみるだろう。それは主に三つの領域をめぐって展開される。すなわち、夫婦の絆にかんする術、性的独占の教説、快楽の共有にかんする美学である。フーコーはこう言って、ストア派やエピクロス派などのさまざまなテクストを手がかりに、この時代に生じた結婚生活への価値付与の内実について分析するのである。

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プーチンのロシア政権が、極東地域の土地をロシア国民に無償で払い下がるばかりか、その後最低五年間は課税を免除するという政策を発表した。その対象には、我が北方領土も含まれているため、日本のメディアにはこれを、北方領土の実行支配強化につながる動きだと懸念するものもある。

船で四国に上陸した義経は、土地の豪族を味方にして、七・八十騎で屋島を急襲した。平家のほうは、源氏が大軍で押し寄せてきたと勘違いし、海上に逃れたが、敵が少数と知ると、能登守教経が先頭になって、反撃に転じた。戦いの火蓋は、双方の舌戦で落とされた。平家方は義経を、孤児だとか金商人の従者だとか言って罵ったが、源氏側の放った矢が平家の武将を倒すと舌戦は終わり、戦闘が始まった。

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スティーヴン・ソダーバーグの映画「KAFKA 迷宮の悪夢」は、20世紀を代表する作家フランツ・カフカを題材にした映画である。とはいっても、カフカの作品をもとにしたわけでもなく、またカフカの伝記的事実にもとづいたものでもない。この高名な作家の名前を借りて、一人の映画作家が自分勝手な映画の世界を作りあげたというに過ぎない。だからこの映画を、カフカに関連づけて解釈するわけには行かない。ただのミステリー映画として見るべきである。

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桂春院は、慶長三年(1598)に妙心寺の塔頭見性院として、信長の甥津田秀則によって創建された後、寛永九年(1632)に美濃の豪族石河貞政によって再興され桂春院と改称された。庭園はその折に造営されたものである。小堀遠州系の庭師によって作られたと推測され、徳川時代には名園として名高かった。

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ダンテとヴィルジリオは怪物ジェリオンの背中に乗って第八圏へと降りてゆく。ヴィルジリオがダンテの背後に乗り、ダンテを危険から守りつつ。

安倍政権が登場して以来、日本の報道の自由度が次第に弱まり、いまや先進国中最低になったばかりか、お隣の韓国以下になった、と国際NGOからお墨付きまでもらったことは、記憶に新しい。その理由は無論権力側からの抑圧にもあるが、それ以上にメディア側に問題があるというふうに見られている。日本の国内にいる我々日本人の目にはなかなか見えにくいが、外国のジャーナリストの目には、日本のメディアの姿勢は権力に跪拝しているように見えるらしい。ジャパン・タイムズに寄せられたコラムを読むと、そのへんが多少見えてくる。そこで後日の参考のために引用しておきたい。


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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の最下列は、そのすぐ上の列と密接に対応している。即ち、左側については、上の列が祝福された人々を描いているのに対応して、下の列は復活した死者がイエス・キリストの呼びかけに応えて起き上がる場面を描いている。一方右側については、上の列でキリストから呪われた人々が、下の列では地獄へ引き渡される場面を描いている。

筆者は、内田樹の書いた本はけっこう多く読んでいるほうだと思うが、そのきっかけとなったのは彼の村上春樹論「村上春樹にご用心」だった。その本の中で内田が、蓮見重彦による村上への罵倒を取り上げて、はじめから読者に読むなというのはえげつないやり方である、読んだ上で自分の言い分が正しいかどうか判断してくれというのがまともなやり方だ、と言っていたのを読んで、なかなか気の利いた批評振りだと思ったものである。

平家物語巻第十一「逆櫓」の章は、屋島の平家軍に義経が奇襲をかけるところを語る。この奇襲をめぐって、義経と梶原景時との間に論争が起こり、それがもとになって景時が義経を深く怨むようになり、やがて義経の野望を頼朝に讒言して、義経を破滅させることへとつながっていく。

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少年少女たちの青春を描き続けた大林宣彦が、中年女性の生き方を描いたのが「女ざかり」だ。これは丸谷才一の同名の小説を映画化したものだが、原作はちょっとした社会現象のようなものを巻き起こした。まず「女ざかり」という言葉が目新しかった。それまでは壮年の男をさして「男ざかり」ということはあっても、「女ざかり」という言葉はなかった。女の命は娘盛りにあるので、それを過ぎた女はもはや「女」とは認識されなかった。ましてや中年の女に色気があるなどと、誰もが思わなかった。そういうような時勢の中で、四十を過ぎた女を「女ざかり」と表現した丸谷の原作は古い人間たちの度肝を抜いた。しかしその一方で、この言葉に拍手喝采した人々もいたわけで、それは自分たちの存在意義をそこに感じることのできた当の中年女性ばかりではなく、彼らと同世代の男たちにもうなずくべきところがあったのである。

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