ロング・グッドバイ(The long goodbye):ロバート・アルトマン

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ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ(The long goodbye)」は、レイモンド・チャンドラーの同名の小説を映画化したものである。原作は、私立探偵フィリップ・マーロウを主人公にした一連の作品のうち最も人気の高いもので、日本でも古くからファンが多かった。近年は村上春樹の翻訳が出たりして、新たなブームを起こしている。筆者も村上春樹の翻訳を通じてその魅力を堪能した一人だ。

原作の「ロング・グッドバイ」は、村上の言うとおり「グレート・ギャツビー」に似通ったところがある。一人の男が一人の男に友情を感じる、相手の男には複雑な過去がある、しかしてある日忽然と消えてしまうが、それはどうやら愛する人を救う為の偽装工作の一環としての行為だった、というような筋書きが共通しているのと、小説に漂う雰囲気に非常に似通ったところがある、というのが村上の見立てだ。

というわけで原作は、テリー・レノックスという、陰影に富んだ不思議な人物を中心に展開していくのだが、映画のほうは私立探偵フィリップ・マーロウを前面に押し出し、マーロウによる事件の謎解きというように組み立てている。筋書きもかなり変えている。一番大きな変更は事件の結末だ。原作では、メキシコまで訪ねてきたマーロウの前に、整形手術で人相を変えたレノックスが現れて、思わせぶりなことを言って去ってゆくのだが、映画では、レノックスに怒りを覚えるようになったマーロウが、拳銃で彼を撃ち殺してしまうのである。

原作では、レノックスへのマーロウの友情が最後までゆるぎないものとして描かれているので、映画の結末はそれとは180度異なると言ってもよい。

だからこの映画は、チャンドラーの小説にインスピレーションを受けながら、内容を換骨堕胎して、似て非なるものに作り変えたと評してもよい。そう言う最大の理由は、この小説の本質は村上のいうように男同士の友情を描くことにあるのに、映画では男同士の友情よりも私立探偵フィリップ・マーロウの職業的な意地にもっぱら拘っていることだ。そのこだわりはしかし、あまり痛切なものとは映らない。原作の中では、マーロウは警察による拷問ややくざの暴力にたえながらも男の意地を通そうとするのだが、映画ではそういう部分はすべてオミットしてある。マーロウは危なげないところで、ただうそぶくだけなのである。女がマーロウの身代わりになってやくざの暴力を受け止めるというおまけまでついている。

だが、そのへんの中途半端さは、マーロウを演じたエリオット・グールドの独特の雰囲気によってだいぶ帳消しにされている。この俳優は、低い声で、モノトナスな発音でしゃべる。そのしゃべり方がなんともユニークだ。決してマッチョではなく、かといってインテレクチュアルでもないが、人間としては筋金が入っている、というような印象を与える。

ラスト・シーンで、レノックスを撃ち殺したあとメキシコの町を歩いているマーロウが、アイリーン・ウェイドとすれ違う場面が出てくる。これを見た人は誰でも「第三の男」のラスト・シーンを思い出すだろう。「第三の男」では、歩いていく女が待ち伏せしている男を無視して通り過ぎる。彼女はその男に腹を立てているのだ。「ロング・グッドバイ」では、それとは反対に、男のマーロウが女のアイリーン・ウェイドを無視して通り過ぎる。だが彼は別に女に腹を立てているわけでもなさそうだ。それなのに何故女を無視したのか。それは観客一人ひとりに考えてもらいたい、とロバート・アルトマンは考えたのであろう。






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