2016年6月アーカイブ

四季山水図(春夏):蕪村の山水画

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(春景山水図 絹本彩色 105.5×41.0cm)

安永二年(1773、蕪村馬歯五十八)の四季山水図は、前々年の十宜図製作を経て、技量に一層磨きのかかった蕪村の中期の代表作である。いづれも、単に風景を淡彩で描くだけでなく、そこに人の生活ぶりを描き加えることによって、独特の世界を現出させている。こうした自然と人間の調和は、蕪村の絵画の最大の持ち味である。

本居宣長「紫文要領」

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「紫文要領」は「石上私淑言」と並んで、宣長が「もののあはれ」論を展開したものである。ほぼ同じ時期に書かれたと思われる。「石上」のほうは和歌に即して「もののあはれ」論を展開し、日本人が「もののあはれ」を素直に感じ、それを表現することが出来るのは、国民性が素直にできている為で、その点では悪人ばかりが跋扈している中国より人間として優れているのだというような、ある種の文明論に踏み込んでいるのに対して、こちらのほうは、「源氏物語」に即しつつ、それを唐こころに毒されずに素直に読むべき心得について論じている。その点では、「石上」に比べて、あくまで文学の領域に限定してものごとを考えようとする姿勢が強い。

白峰(三):雨月物語を読む

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 院、長嘘<ながいき>をつがせ玉ひ、今事を正して罪をとふ、ことわりなきにあらず。されどいかにせん。この嶋に謫れて、高遠が松山の家に困められ、日に三たびの御膳すゝむるよりは、まいりつかふる者もなし。只天とぶ鴈の小夜の枕におとづるゝを聞けば、都にや行くらんとなつかしく、曉の千鳥の洲畸にさわぐも、心をくだく種となる。烏の頭は白くなるとも、都には還るべき期もあらねば、定めて海畔の鬼とならんずらん。ひたすら後世のためにとて、五部の大乘經をうつしてけるが、貝鐘の音も聞えぬ荒磯にとどめんもかなし。せめては筆の跡ばかりを洛の中に入れさせ玉へと、仁和寺の御室の許へ、經にそへてよみておくりける
  濱千鳥跡はみやこにかよへども身は松山に音をのみぞ鳴く
しかるに少納言信西がはからひとして、若咒咀<もしじゆそ>の心にやと奏しけるより、そがまゝにかへされしぞうらみなれ。

月はどっちに出ている:崔洋一

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崔洋一の映画「月はどっちに出ている」は、在日韓国・朝鮮人を主人公に据えて、彼を取り巻く在日韓国・朝鮮人社会のあり方や、フィリピンからの出稼ぎ女性に象徴される日本社会の中のエスニックは要素について描いた作品だ。それまでは、在日韓国・朝鮮人たちが、映画の中で描かれることはあっても、日本にとっての他者として、あるいは憐憫の対象として描かれるのがほとんどで、この映画のように、彼らを一人の普通の人間として描いたものはほとんどないといってよかった。この映画は、その意味で画期的な意義を持つ作品だと言えるのではないか。

蘇鉄図屏風:蕪村の世界

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(蘇鉄図屏風 紙本墨画 四曲一双 各162.0×363.0cm 左隻)

讃岐滞在中に蕪村が世話になった菅暮牛の菩提寺が丸亀にあった。正因山実相院妙法寺という天台宗の寺院である。その寺院のために蕪村は、一対の図屏風を製作した。画のテーマは、寺の庭園にあった蘇鉄である。完成したのは明和五年四月、蕪村が讃岐を去る直前のことである。

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二人が声のする方向、すなわち第七の嚢へ向かってゆくと、そこにはおぞましい光景が展開していた。夥しい数の蛇が、これもまた夥しい亡霊たちに巻き付いて、かれらを責めさいなんでいる。これらの亡霊たちは、生前盗賊を働いたために、ここへ落されてきたものたちの亡霊だったのだ。その亡霊たちの、苦しむさまを見たダンテは、大いに驚く。

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「聖アンナと聖母子」の製作時期については、ダ・ヴィンチがフィレンツェに戻った直後(1503年頃)とする説と、晩年の1517年頃とする説とがある。この絵と同じような構図のカルトン画(ハーリントン・ハウス・カルトンと呼ばれる)が、1499年頃フランス王の依頼を受けて作られたことがわかっているが、この絵はその延長で描かれたのではないかとする説が有力である。ハーリントンのほうには幼児のヨハネが加えられているが、それを除けば聖アンナと聖母子の構図は両者でほとんど変らない。

村上春樹「村上朝日堂の逆襲」

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「村上朝日堂の逆襲」は、1985年4月から一年間にわたり「週刊朝日」に連載されたエッセーを集めたものだ。前作の「村上朝日堂」が「日刊アルバイトニュース」というやや特殊な媒体に連載されたのに対し、これはメジャーな週刊誌に連載されたということもあって、文章もやや長め(原稿用紙七枚程度)だし、一文づつの完成度も高いが、書かれている内容はそう違わない。あいかわらず村上の個人的な関心事を中心に回っていると言った感じである。

白峰(二):雨月物語を読む

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 新院呵々と笑はせ給ひ、汝しらず、近來の世の乱は朕がなす事なり。生きてありし日より魔道にこゝろざしをかたふけて、平治の乱を發さしめ、死して猶朝家に祟りをなす。見よ見よやがて天が下に大乱を生ぜしめんといふ。西行此詔に涙をとどめて、こは淺ましき御こゝろばへをうけ玉はるものかな。君はもとよりも聡明の聞えましませば、王道のことわりはあきらめさせ玉ふ。こゝろみに討ね請すべし。そも保元の御謀叛は天の神の教へ玉ふことわりにも違はじとておぼし立せ玉ふか。又みづからの人慾より計策り玉ふか。詳に告せ玉へと奏す。

夢千代日記:浦山桐郎

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映画「夢千代日記」は、1981年2月から1984年3月にかけて、三回のシリーズにわけて断続的に放送されたテレビドラマを映画化したものだ。テレビ、映画とも主人公の夢千代を演じた吉永小百合は、この作品を通じて、それまでの清純派女優のイメージから脱して、陰影を感じさせる大女優へと成長した。吉永を女優として売り出した浦山桐郎が、その吉永を風格ある大女優にしたわけで、吉永本人にとってこの映画は感慨深いものがあろうと思う。

蕪村の動物画

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(猛虎飛瀑図 絹本着色 114.0×135.0cm)

蕪村は、数はあまり多くはないが、動物絵も手がけている。同時代には伊藤若冲が動物絵の大家として人気があったから、そちらを意識したこともあっただろう。

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彼らが頂上と思ったところは、まだ第七の嚢ではなかった。そこで更に先へ進んで行くと、はるか下の方から、不気味なうめき声のようなものが聞えてくる。これこそが、第七の嚢に落されたものどもの声なのであろう。ふたりはその声のする方向へ、更に進んで行く。

英国のEU離脱が意味するもの

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英国で行われていたEU残留か離脱かをめぐる国民投票の結果、EU離脱派が多数を占め、英国がEU離脱の道に踏み込むことが決定した。世界中には早速論評の嵐が吹き荒れ、それに釣られるかのように経済指標も乱高下した。日本でも自称評論家たちがわけのわからぬ言説をまき散らしている。これらはみな事態の深刻さを素直に反映したものだ。これについて筆者は、ほとんど意味のない寄与をすることをわきまえながらも、とりあえず自分自身の感想を、後々の参考という意味を含めて、書いておきたい。なにしろ世界史に残るような重大な出来事だ。ひとことくらい言わずにはすまない。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、60歳を過ぎた晩年に、ジュリアーノ・デ・メディチの庇護を受けてローマに赴いたが、ローマではミケランジェロやラファエロの仕事がもてはやされていて、レオナルドの画家としての活躍の場はほとんどなかった。従って、今日まで残るような大作を製作していない。

瀬戸内寂聴「白道」

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瀬戸内寂聴の著作「白道」は、歌人西行の評伝である。寂聴は小説家であるから、西行を歴史的な視点から見るというよりも、小説家らしい視点から見ている。それは空想を交えたもので、西行を一人の生きた人間として見るというものだ。では寂聴は西行という人間を、基本的にはどのような人間として見ているのか。ごく単純化して言えば、自分の生涯をかなわぬ恋に捧げたヤワな人間として見るということのようである。西行のそのかなわぬ恋の対象とは、院政時代を奔放に生きた恋多き女待賢門院璋子である。

倣銭貢山水図:蕪村の世界

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蕪村は明和三年(馬歯五十一)から二年間讃岐に滞在する。妻子を京へ残しての単身滞在だった。主な目的は、絵の顧客の獲得だったらしい。合せて俳句の会合も催したが、こちらのほうは余り気が乗らなかったようだ。気の利いた句を読む仲間がいなかったからだといわれる。

やまと考:本居宣長「石上私淑言」

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本居宣長は「石上私淑言」の中で、日本の国名としての「やまと」について、かなり詳しく論じている。宣長によれば、「やまと」という名は、もともとは一地方の国名(大和の国)として言われてきたもので、日本全体を指す言葉(惣名)としては、「葦原の中つ国」とか「大八洲国」とか言った。「天上よりこの国をさしては、『葦原の中つ国』といひ、この土にていふ時は、『大八洲国』といへるなり」と言うのである。

白峰(一):雨月物語を読む

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 あふ坂の関守にゆるされてより、秋こし山の黄葉見過しがたく、濱千鳥の跡ふみつくる鳴海がた、不盡の高嶺の煙、浮嶋がはら、清見が関、大磯小いその浦々、むらさき艶ふ武藏野の原、塩竃の和<なぎ>たる朝げしき、象潟の蜑が笘や、佐野の舟梁、木曾の棧橋、心のとゞまらぬわたぞなきに、猶西の國の哥枕見まほしとて、仁安三年の秋は、葭がちる難波を經て、須磨明石の浦ふく風を身にしめつも、行々讚岐の眞尾坂<みをざか>の林といふにしばらく杖を植<とゞ>む。草枕はるけき旅路の勞にもあらで、觀念修行の便せし庵なりけり。

蒲田行進曲:深作欣二

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「蒲田行進曲」は、松竹蒲田撮影所の所歌として歌われたという。戦前の流行歌で、蒲田撮影所とは直接の関係はないようだが、なぜか蒲田撮影所のシンボルとして関係者から愛されたのだそうだ。その「蒲田行進曲」を冠した映画だから、当然蒲田撮影所が舞台になっているのだろうと、誰もが受け止めるところだが、この映画の舞台になっているのは、松竹蒲田撮影所ではなく、東映の京都撮影所なのである。しかもこの映画は、松竹の肝いりで作られたが、東映出身の深作欣二が監督を勤めている。妙な因縁を感じさせる映画である。

安倍政権の副総理大臣の椅子に座っている麻生太郎氏が、先日(6月17日)に行われた講演会で、90歳の老人を話題に挙げて、「いつまで生きているつもりだ」と発言した。彼の失言癖は珍しくもなく、これもその一つとして受け流す向きが多かったが、なかには厳しく批判するものもいた。そうした批判に対して彼も反論した、自分には侮辱するつもりなどなかったと。ではどういうつもりでこんなことを言ったのか、わかりやすい説明はなかった。あたかもこれは自分の本音を言ったまでで、侮辱などというものではない、と言いたいかのようだ。

山水図屏風:与謝蕪村の世界

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(山水図屏風左隻 絖本図屏風 六曲一双 162.5×369.6cm)

蕪村は遅咲きの才能で、絵師として独り立するのは四十代半ばの頃である。彼は、特別の流派について絵を修行したことがなく、基本的には独学で絵の技術を習得した。手本としたのは主に中国の絵画であり、とりわけ南宋画の影響を強く受けた。彼が独り立した頃の絵には、南宋画風の淡彩画が多い。そのほかにも、明の絵画なども取り入れ、客の注文に応じて描き分けた。

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第六の嚢から第七の嚢に通じる道は、けわしい岩場を登っていかねばならなかった。二人はその難路を、息を切らしながら登ってゆく。ヴィルジリオが音頭をとって、ときにはダンテを抱きかかえながら。

京橋の美々卯でそばを食う

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昨日(6月19日)、久しぶりに都心に出て昼飯を食った。現役時代の知人某から電話がかかって来て、暇を持て余しているから飯でも食いながら馬鹿話をしないか、と誘われで出かけた次第だ。東京駅の八重洲口で待ち合せる。しばらく見ないうちに、駅前の様子は劇的な変貌を遂げている。かつて大丸のあった場所は建て替えられて全く違う雰囲気になっているし、周辺には超高層ビルがいくつも立ち並んでいる。筆者がこの界隈を歩き回っていたのはつい30年ほど前のことだが、その間に全く別の街かと思われるほどに変ってしまったわけだ。日本経済の停滞が叫ばれてから久しいが、こと東京の都心を見る限り、停滞どころか日々前(?)に向かって進んでいる、という印象を受ける。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノのフランチェスコ教会のために描いた「岩窟の聖母」を別人に売却してしまったために、教会との間でトラブルを起こした。そこで、その埋め合わせとして製作したのが、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーにある第二ヴァージョンの「岩窟の聖母」である。

村上春樹「村上朝日堂」

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「村上朝日堂」は、村上春樹の最初のエッセー集である。エッセーというより雑文と言ったほうがよいかもしれぬこれらの文章を村上は、「日刊アルバイトニュース」という情報誌に一年以上にわたって連載した。自分にとって最初になるエッセーの連載を何故情報誌に載せたのか、村上は明言していないのだが、媒体がエッセーを読むことを目的とした人々を当面の対象としていないこともあって、村上はかなり気楽に文章を書いている。

女院死去:平家物語灌頂の巻

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灌頂の巻最終章は、後白河法皇が去った後、改めて平家一門の滅亡が思いやられると確認した上で、建礼門院の最後について語る。その最後は、女院が一本の糸で阿弥陀如来像の手とつながり、西のほうを向きながら念仏を唱えるうちに、静かに息を引き取ったというものだった。時に「西に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽空にきこゆ」とあるのは、女院が成仏できたことを語っているのであろう。

田園に死す:寺山修二

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「田園に死す」は、寺山修治の自伝的な色彩の濃い映画だと言われている。恐山とか、イタコが出てくるから、恐らく寺山の故郷である下北を舞台にしているのだろう。下北といえば、日本の極北とも言えるところで、貧困と因習に付きまとわれたというイメージが強い。寺山はそうしたイメージを逆手にとって、日本とは何かを描きたかったようだ。この映画の中で寺山が描いているのは、時代的には戦争中であったり、戦後間もないころの時代であったり、焦点が定まらないのだが、それはこの映画の構成が、一人の映画人が自分の少年時代を回想するというところから来ている。回想のなかでは、えてして時間の前後関係が曖昧になるものだし、出来事の記憶も錯綜するようになるものだ。

修学院離宮その二:日本の庭園

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修学院の上の離宮は、小高い丘の上に造営されている。浴龍池と呼ばれる巨大な池を中心として、池の中には二つの島を浮かべ、その一つに窮邃亭という茶屋を立て、また池の南西側の一段高いポイントのところに隣雲亭という茶屋を配している。そしてこれらの間を散策路で結び、季節それぞれに応じた眺めを楽しむ回遊式の庭園となっている。

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ダンテとヴィルジリオが第六の嚢に入ると、そこにはフードをまぶかくかぶり、白い僧服を着た者たちが大勢行進していた。これらの者たちは、生前に行った偽善行為のためにここに落されてきたものたちである。彼らの服は、内側が金属でできているために、重すぎて、なかなか前へ進むことができない。そんな彼らを次々と追い抜きながら、ダンテとヴィルジリオは進んで行く。

山陽紀行(その五):しまなみ海道

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(瀬戸内海クルーズ船)

六月十日(金)朝方より快晴にて暑気甚だし。昨夜と同じ部屋にて朝餉を供せらる。窓より海を眺むるに、折から引き潮の底にあたり海底ありありと見えたり。これならば人が浸かりても背がたつべし。仲居の老嫗が言ふには、引き潮の折にはこの海に下りて胸まで水に浸かりながら熊手様の道具もてあさりを掬ひ取る客もあると。余はいはゆる金槌なれば、大事を考慮して海に浸かることはせず。他人のとりたるあさりを味噌汁にして食ふのみなり。

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1499年にスフォルツァ公ルードヴィコが政争で失脚すると、庇護者を失ったダ・ヴィンチはミラノを去り、マントヴァ、ヴェネチアを経て翌年の春頃にフィレンツェに戻った。これ以降、ダ・ヴィンチの画家としての成熟期を迎えることになる。

高橋英夫「西行」

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我々現代人にとっての西行像は、芭蕉をとおして浮かび上がってくるのが相場になっていて、おのづから旅を住処とする漂泊の歌人というイメージになるのだが、高橋英夫のこの本は、西行をもっと広い視点から捉えなおしている。その結果あらたに浮かび上がってくる西行像は、ごく単純化して言えば、世俗を捨てこの世から超絶した旅の僧というイメージではなく、生涯世俗に捉われた煩悩の人だったというイメージだ。

山陽紀行(その四):浄土寺

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(浄土寺山門)

食後バスに乗りて浄土寺を訪ふ。山陽道より直接石段を登るなれどその途中を山陽線貫通したれば線路を潜って石段を登るなり。上ること数級にして山門あり。この山門前はかの「東京物語」において老いたる笠智衆と若き原節子が肩を並べて海を見るシーンの舞台となりしところなり。我らは山門の内側より海の方向を見下ろしたり。

修学院離宮その一:日本の庭園

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修学院離宮は、後水尾院の指示によって明暦元年(1655)から万治二年(1659)にかけて造営された。上・中・下三つの離宮から構成され、それらを田んぼの畦道をそのまま利用した苑路によってつないでいる。離宮周辺の緑地帯とあわせると、総面積54万平方メートルに及ぶ広大な庭園である。

本居宣長は、日本語の古語の語源について強い関心を持ち、それを著作の中でも披露しているが、それは古事記や万葉集の文字を解読する作業のなかで培われたものであろう。古事記などに用いられている文字を解読するには、言葉の語源に通じていることが役立つからである。

山陽紀行(その三):尾道市街

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(千光寺山ロープウェー)

六月九日(木)夜来雨激しく降りをりしが九時頃にやむ。昨夜の仲居朝餉の案内に来りていふ、大変な降りやうですが雨漏りはせなんでしたか、と。おいおいしょっちゅう雨漏りがするのかね、と聞くに、なにしろ建物が古うござりますから、と呑気な顔つきなり。確かに雨漏りこそせざれ、床が音を発するなど、古さを感ぜしむる建物なり。

六道之沙汰:平家物語灌頂の巻

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後白河法皇と対面した建礼門院は、自分の生涯を振り返り、それを六道の転変に喩えた。それに対して法王は、唐の三蔵法師や日本の日蔵法師が、いずれも成仏に先立って六道を見たという言い伝えを引き出して、あなたも六道を見たからにはきっと成仏できますよと暗にほのめかす。

心中天網島:篠田正浩

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篠田正浩の映画「心中天網島」は、近松門左衛門の同名の浄瑠璃を映画化したものである。この作品は近松の最高傑作でもあり、また心中物の頂点をなすものだ。男女の愛に女同士の義理を絡めた筋書きは、日本の芝居史上でも比類のない完成度を示していると言え、日本人なら誰が見ても感動せざるをえないように出来ている。いわば日本人の心の原風景をそのまま見える形に表現した理想的な芝居と言える。その芝居としての理想的な作品を、篠田は映画という形に転換してみせたわけである。

山陽紀行(その二):尾道の旅館魚信

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(尾道の旅館魚信)

三時半頃福山駅に戻り、山陽本線に乗りて尾道に至る。列車は尾道市街に入りて海岸沿を行けり。左手に日立造船所の工場を見る。これは尾道市街とは狭隘なる海峡を隔てたる向島の造船所にて、これを目にしたるときは先日見し映画「故郷」の一齣を思ひ出しぬ。

最後の晩餐:レオナルド・ダ・ヴィンチ

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「最後の晩餐」は世界の絵画史上最高傑作のひとつに数えられる。ダ・ヴィンチがミラノ滞在中に、スフォルツァ公ルードヴィゴの命を受け、サンタ・マリア・デレ・グラーツェ聖堂の食堂の壁画として、1495年から1497年にかけて製作した。保存に適さないテンペラ画法で描かれたため、早くも16世紀には損傷が現われ、以来何度も修復が繰り返されている。

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ダンテとヴィルジリオの二人は、悪鬼が仲間内で争っているすきに逃げ出したはよいが、彼らの逃げたことに気付いた悪鬼たちが、すぐに後を追ってきた。その気配を感じたダンテは恐怖に囚われる。さすがのヴィルジリオも、身に危険の迫るのを感じるが、ダンテを抱きかかえるようにして先を急ぎ、第六の嚢に通じる場所を通りぬける。すると悪鬼たちは、その先までは追いかけてこなかった。

山陽紀行(その一):福山・鞆の浦

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(福山城)

余嘗て薇芸両陽に遊びしことはあれどその中間なる尾道には未だ嘗て足を踏み入れしことなし。志賀直哉の小説やら二三の映画を通じて、その風光明媚なることを知れるのみ。この度自らの目をもてその風景の美しきさまを堪能せんと思ひ、共に旅せんやと旧友英生に声をかけしところ、子もまた尾道に遊びたしとかねて思ひ定めをりしなりとて、大いなる賛同を得られしかば、水無月の初めの八日といふ日に、ともに旅装に身を包み、東都を発して西国に向かふこととはなりたり。

桂離宮その二:日本の庭園

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園林堂は持仏堂として作られたが、現在では安置している仏像はなく、建物だけが残されている。本瓦葺宝形作り屋根を持つ、ユニークな形の堂である。賞花亭と同じ島に立てられており、西側にある橋を介して岸と結ばれている。

村上春樹「TVピープル」

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「TVピープル」に収められた六篇の短編小説は1989年の6月以降年末までの半年の間に書かれた。長編小説との関連で言うと、「ダンス・ダンス・ダンス」(1888年)と「国境の南・太陽の西」(1992年)にはさまれた比較的長いインターバルの時期であり、村上は海外で生活していた。

大原御幸:平家物語灌頂の巻

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灌頂の巻は、平家物語の後日談として、清盛の娘であり安徳天皇の生母であった建礼門院の最後について語る。この部分の平家物語における位置づけについては、さまざまな見方があるが、文体などからして、もとは独立の語り物であったものが、後に平家物語本体に加えられたと考えられなくもない。和文主体の嫋嫋たる文体で、建礼門院の最後の日々について語っている。その内容は、女院の出家から大原の寂光院への入御、寂光院への後白河法皇の訪問、法王を前にして女院が自分の生涯を六道の転変として振り返ることなどからなり、最後は女院の極楽往生=女人成仏で締めくくっている。

古都:中村登

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中村登の1963年の映画「古都」は、川端康成の同名の小説を映画化したものである。川端の原作であるから筋書きは退屈であるし、二役を演じている主演の岩下志麻の演技もぎこちないのだが、今でも十分に見る価値はある。というより、今でこそ見る価値がある。この映画は、オリンピック直前の京都の街を舞台にしており、開発で変化する前の、古き時代の京都の街のたたずまいがそっくりそのまま映し出されている。いわば映像を通じて京都の街を冷凍保存しているようなものなのである。

桂離宮その一:日本の庭園

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桂離宮は、複雑に入り組んだ形の大きな池を中心にして、池の周りや島の上に、雁行型に並んだ書院群や月見を兼ねた茶室をいくつも配置した池泉回遊式庭園であり、その規模は七万平方メートルに及ぶ。八条の宮智仁親王が元和元年(1615)に造営をはじめ、寛永元年(1624)頃には、古書院のほか庭園部分を含む一期工事が完成した。寛永六年に智仁親王が死んだ後は、一時荒廃したが、その子智忠親王が成人するや、荒廃した庭園を復興するとともに、寛文二年(1662)頃までに、中書院、新御殿、月波楼、松琴亭,賞花亭、笑意軒などを増築し、ほぼ今日の形に整えた。

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ナヴァールラ人に逃げられて怒った悪鬼たちは、大いに騒ぎだす。逃げた者を追いかけようとして、瀝青のために羽を損なったり、仲間同士で喧嘩を始めるのである。その騒ぎの中で、ダンテとヴィルジリオは第六の嚢を目指して進んで行く。

キューポラのある街:浦山桐朗

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「キューポラのある街」が封切られた1962年には、筆者は14歳の中学生だった。その中学生の筆者にも、この映画が描いていることは十分にわかった。当時はまだ、日本の社会には絶対的な貧困というものが蔓延していたし、そうした貧困によって押しつぶされている人が、自分の周囲にも大勢いた。だからこの映画の中に出てくる人々の苦悩や悲しみは、他人事ではなかった。吉永小百合演じるこの映画の中の主人公の少女は、そうした苦悩や悲しみに向き合いながら必死になって生きている。そうした彼女の生き方が、筆者の目には非常に身近に感じられた。この少女は、身近さを感じさせるとともに、尊さも感じさせた。その尊さとは、生きることの尊厳さを感じさせるようなものであった。

曼殊院:日本の寺院庭園

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曼殊院はもと延暦寺の塔頭として比叡山にあったが、明暦二年(1656)に桂宮智仁親王の次男良尚法親王によって現在地に再建された。智仁親王は、桂離宮を造営しており、その長男智忠親王は桂離宮を現在の形に完成させた。また、曼殊院にほど近い修学院は、智仁親王の甥にあたる後水尾上皇によって造営されている。こういうわけで、桂離宮、修学院離宮、曼殊院は密接な因縁によって結ばれている。造園術という点においては、桂離宮と曼殊院とは深いかかわりがあるとされ、曼殊院は小さな桂離宮とも呼ばれている。

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ダンテたちは、プールに浮かんでいる一人の男の亡霊を見る。ヴィルジリオの問いに対して、ナヴァール生まれのものだと答えたその男は、生前職務の権限を悪用して汚職を行った咎で、ここに落されたのだと語る。その亡霊に向って、悪鬼たちが責苦を与えようとして身構えるが、頭目が悪鬼らを制止して、ヴィルジリオが亡霊に語りかけるのを許す。

聾者の対話:米中関係の今日

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シンガポールで行われたアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で、米中が正面衝突のような対立ぶりを見せた。とりわけ問題となったのは南シナ海における中国の動向。アメリカは中国に対して、国際法を順守して、一方的な行動をやめるように訴え、一方中国はアメリカに対して、中国の主権を無視するような行動をやめろと訴えた。そのやりとりを見ていると、はた目にはまったくかみ合っていないように見える。

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「婦人の肖像」もミラノ時代に描かれた肖像画の一つだ。同時期の作品「白貂を抱く婦人の肖像」と比較されることが多い。どちらも、上体を斜めにして顔を観客のほうに向けた構図だとか、強い明暗対比などがそのおもな要素だが、一番の共通点は、額に着けた飾り(フェロニエール)だ。

村上春樹「パン屋再襲撃」

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村上春樹の短編小説集「パン屋再襲撃」は、表題作以下六篇の短編小説を収めている。いづれも比較的まとまった分量からなり、けっこう読ませる内容だ。書かれた時期は1985年の夏以降年末までの半年足らずの短い間だ。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を書き終えた直後にあたっている。

六代:平家物語巻第十二

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平家物語の本文は、平家の嫡流六代の死を以て終わる。六代の死は平家の完全な滅亡を意味し、それを語ることは、平家物語を締めくくるに相応しいと言えよう。その象徴的な場面に登場するのが文覚上人である。文覚は、巻第六で登場し、頼朝の命を救う為に大活躍した後、高雄の神護寺に引きこもって、当面は舞台から消え去っていたのであるが、平家の嫡男六代が、頼朝の命によって殺されそうだと聞き、その命乞いのために一肌脱ぐのである。平家を滅亡させた頼朝の命を救ったその文覚が、今度は平家の嫡男の命を救う為に尽力するという構図は、平家物語に奥行きをもたらしているといえる。

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「ゴッドファーザーPARTⅡ」は、コルレオーネ・ファミリーの二代目となったマイケルのその後の生き方と、父親のヴィートの少年時代を重ね合わせて描いた作品である。前作が、ヴィートとマイケルの父子二代にわたる原作の壮大な物語のうち、その中間部分を抜き出して映画化したために、そこからもれた部分について、改めて取り上げた格好だ。前作の評判が非常によかったので、二匹目の泥鰌を狙った形だが、この場合にはその狙いが功を奏した。前作と並んでアカデミー作品賞まで受賞している。

随心院:日本の寺院庭園

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随心院は、平安時代に任海僧正によって創建された古い寺であるが、応仁の乱以降荒廃していたものを、慶長四年(1599)に九条・二条両家によって再建された。

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地獄篇第二十二曲は、ダンテとヴィルジリオが悪鬼たちに案内され第五嚢のプールの畔を行くさまについて歌う。悪鬼たちの獰猛なことは、人間どものどんな凶暴な戦の様子も及ばないほどすさまじい。だから、プールの中の罪人たちは、彼らの災いを逃れようとして必死である。だが、そんな罪人の一人が、悪鬼によって熊手で絡め取られる。

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「若い男の肖像」は「白貂を抱く婦人の肖像」と同じ頃にミラノで描かれたと考えられている。この若い男が右手で持っている紙片が楽譜であるところから、音楽家のフランチーノ・ガッフリオではないかと指摘される。

柄谷行人「世界共和国へ」

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この本の中で柄谷が試みたのはマルクスの国家論への批判である。マルクスは国家を上部構造として、ある種のイデオロギー装置のようなものとして見た。国家は、経済関係を下部構造として、経済関係における支配階級がそれ以外の階級を支配する為の道具である、というのがマルクスの国家論の基本的な特徴である。国家は階級支配の道具であるから、階級支配とそれを担う階級が消滅すれば、それに伴って死滅する。マルクスが目的とした共産主義社会というのは、国家が死滅したあとの社会の状態、階級支配のない平等な社会である、ということになる。

渉成園:日本の庭園

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渉成園は、東本願寺の飛地境内地である。東本願寺本体は、慶長七年(1602)に十二代門主教如上人が徳川家康から寺地の提供を受けて成立したが、その後十三代門主宣如上人の時に、家光から現在地を寄進されたのを受けて、承応二年(1653)にそこを自らの隠居所とした。渉成園という名称は、陶淵明の詩「帰去来辞」の一節「園日渉而以成趣」からとったという。また、周囲に枳殻を生垣として植えたことから枳殻亭とも呼ばれた。

本居宣長「石上私淑言」

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本居宣長の著作「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」は、「紫文要領」と並んで、「もののあはれ」論を展開した著作である。「紫文要領」がその題名にあるとおり「源氏物語」を材料にとって「もののあはれ」を論じているのに対して、「石上私淑言」のほうは、和歌を通して日本人特有の「もののあはれ」を重んじる姿勢を論じている。国文学者の日野龍夫によれば、この二つの著作はいずれも宝暦十三年(1763)に書かれており、しかも宣長が「もののあはれ」という言葉を用いて己の思想を語ったのはこの二つの著作に限られるという。後年「源氏物語玉の小櫛」が出版され、そのなかでも「もののあはれ」という言葉が出てくるが、この著作は「紫文要領」に手を加えたものなので、実質的な内容は「紫文要領」と変わらない。

生命倫理の講義を聞く

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例の四方山話の連中と新橋の古今亭で会った。今日は福子から学者人生についての回想話が聞けるはずだというので、合せて十一人が集まった。筆者と福子の他、石、浦、岩、柳、六谷、七谷、田、梶、越の諸子だ。越子はこの会には初参加だ。彼は我々より二年後輩だが、先輩から声をかけられ、面白そうだから参加させてもらったと言う。

判官都落:平家物語巻第十二

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土佐坊が義経に殺されたことを知った頼朝は、弟の範頼に命じて義経を討たそうとするが、範頼はなにかと言いつくろって言うことを聞かない。そこで怒った頼朝は範頼を殺してしまう。一方身の危険を感じた義経は、京都を出て九州へ避難しようと思う。そこで九州の豪族たちが義経の意向に従うよう、法皇に院宣を書いてもらう。法皇や公卿たちは、とにかく災いのもとである義経を都からいなくなって欲しい一年で、義経の願いを入れて院宣を与えてしまうのである。

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フランシス・コッポラの映画「ゴッドファーザー」はアメリカばかりでなく世界中で大ヒットした。日本でもやはり大ヒットになった。公開から40年以上経ったいまでも、人気は衰えないという。この映画のなにが、それほど人々をひきつけるのか。

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