ゴッドファーザーPARTⅡ(The Godfather PartⅡ):フランシス・コッポラ

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「ゴッドファーザーPARTⅡ」は、コルレオーネ・ファミリーの二代目となったマイケルのその後の生き方と、父親のヴィートの少年時代を重ね合わせて描いた作品である。前作が、ヴィートとマイケルの父子二代にわたる原作の壮大な物語のうち、その中間部分を抜き出して映画化したために、そこからもれた部分について、改めて取り上げた格好だ。前作の評判が非常によかったので、二匹目の泥鰌を狙った形だが、この場合にはその狙いが功を奏した。前作と並んでアカデミー作品賞まで受賞している。

マイケルにかかる部分を表とし、ヴィートの部分を裏とした、二重構造になっているが、表と裏との間には強いつながりはない。表の部分と裏の部分とが交互に、かかわりなく進んでゆく。表の部分は、マイケルがマフィア社会で自分の位置を守るために汲々とするあまり、兄弟家族を次々と失って次第に孤立してゆく姿を描いているのに対して、裏の部分は、ヴィートの少年時代から始まって、マフィアのボスに成り上がるプロセスを描いている。どちらがどうということもない。マイケルとヴィートが父子だという先入観がなければ、全く違う物語を交互に見せられているような感じである。

ヴィートは、シチリアで生まれ、9歳のときに、両親と兄を地元のマフィアに殺されて孤児となり、単身アメリカへ渡ってくる。そこで成長したヴィートは、結婚して家族をもち、ほそぼそと生活していたが、街のならずものたちと接するうちに、自分もその道になれて、やがて本格的なやくざにのし上がってゆく。そしてやくざとして貫禄がついたところで故郷へ錦を飾り、親兄弟の仇をうつというのが主なストーリーである。

一方マイケルのほうは、ラス・ヴェガスを拠点にして勢力を拡大しようとする過程で、仇敵たちとの戦いに巻き込まれてゆく。その戦いの過程では、敵の陰謀や仲間の裏切りといった事態が相次ぎ、マイケルは情け容赦もなく邪魔者を殺してゆく。実の兄のフレドもマイケルの怒りを買って殺されてしまうほどだ。こういう壮絶な戦いの後、マイケルは一人勝ち残るのだが、その時には、自分の周りには愛するものや信頼するものがほとんど残っていなかった。つまりマイケルは孤独のうちに残されたというわけなのだ。

前作は暴力シーンの連続だったが、この作品でも、前作ほどではないにしてもやはり迫力のある暴力シーンが多い。ヴィートがならず者のファルッチの口の中に銃弾をぶちこむ場面やシチリアのマフィアの腹を割いて殺す場面などはとくに印象的だ。

前作では、警察の不正が描かれていたが、ここでは一ランク上の上院議員の不正が描かれている。警察のほうはせいぜいやくざから賄賂をもらった見返りにお目こぼしをしていた程度だったが、上院議員ともなれば、マフィアと結託して巨額な金を動かすようになる。こんな様子を映画で見せられると、アメリカでは、こうした公的な権力を私物化する人間が多いというふうにうけとられるものだ。実際そのとおりなのかもしれないが。

ヴィートがこの映画のなかで生きていた時代は、1950年代のアメリカということになっていて、ヴィートの活動の舞台として革命前のキューバが出てくる。ヴィートはマフィアのボスとしてではなく、アメリカの有力なビジネスマンとしてキューバにかかわり、濡れ手に粟のビジネスに乗り出そうとする。バティスタ政権がそれを全面的にバックアップしようというのだが、そのバティスタは所謂キューバ革命で亡命を余儀なくされ、ヴィートのもくろみも頓挫してしまう。そのあたりを映画は淡々と描くのだが、そのありさまを見ていると、当時のアメリカのビジネスマンがいかに汚いことを平気でやっていたか、なんとなく伝わってくるようになっている。

こんなわけで、この映画も、アメリカの犯罪社会の内幕を描きながら、権力の腐敗振りを合わせて描いている。なかなかしたたかな意図をこめた作品だといえよう。






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