六道之沙汰:平家物語灌頂の巻

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後白河法皇と対面した建礼門院は、自分の生涯を振り返り、それを六道の転変に喩えた。それに対して法王は、唐の三蔵法師や日本の日蔵法師が、いずれも成仏に先立って六道を見たという言い伝えを引き出して、あなたも六道を見たからにはきっと成仏できますよと暗にほのめかす。

その建礼門院の話とは、栄華に輝いていた平家絶頂の時期を天道に喩え、そこからの転落を順に、人間道、餓鬼道、修羅道、地獄道として描いてゆくというものであった。

~女院重ねて申させ給ひけるは、「我平相国のむすめとして天子の国母となりしかば、一天四海みなたなごころのままなり。拝礼の春の始より、色々の衣更、仏名の年のくれ、摂禄以下の大臣公卿にもてなされしありさま、六欲四禅の雲の上にて八万の諸天に囲繞せられさぶらふらむ様に、百官悉く仰がぬものやさぶらひし。清凉紫宸の床の上、玉の簾のうちにてもてなされ、春は南殿の桜に心をとめて日をくらし、九夏三伏のあつき日は、泉をむすびて心をなぐさめ、秋は雲の上の月をひとり見む事を許されず。玄冬素雪のさむき夜は、妻を重ねてあたたかにす。長生不老の術をねがひ、蓬莱不死の薬を尋ねても、ただ久しからむ事をのみ思へり。あけてもくれても楽しみ栄えし事、天上の果報も是には過じとこそおぼえさぶらひしか。

~それに寿永の秋のはじめ、木曾義仲とかやに恐れて、一門の人々住みなれし都をば雲井のよそに顧みて、ふる里を焼野の原とうちながめ、古は名をのみききし須磨より明石の浦づたひ、さすが哀れに覚えて、昼は漫々たる浪路を分けて袖をぬらし、夜は洲崎の千鳥と共になきあかし、浦々島々よしある所を見しかども、ふる里の事はわすれず。かくて寄る方なかりしは、五衰必滅のかなしみとこそおぼえさぶらひしか。人間の事は愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられて侍らふ。四苦八苦一として残る所さぶらはず。

~さても筑前国太宰府といふ所にて、維義とかやに九国の内をも追出だされ、山野広しといへども、立ちよりやすむべき所もなし。同じ秋の末にもなりしかば、むかしは九重の雲の上にて見し月を、いまは八重の塩路にながめつつ、あかしくらしさぶらひし程に、神無月の比ほひ、清経の中将が、「都のうちをば源氏がために攻め落され、鎮西をば維義がために追出ださる。網にかかれる魚の如し。いづくへ行かば逃るべきかは。永らへはつべき身にもあらず」とて、海にしづみ侍ひしぞ、心うき事のはじめにてさぶらひし。浪の上にて日をくらし、船の内にて夜をあかし、みつぎものもなかりしかば、供御を備ふる人もなし。たまたま供御はそなへむとすれども、水なければ参らず。大海にうかぶといへども、潮なればのむ事もなし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえさぶらひしか。

~かくて室山・水島、ところどころの戦ひに勝ちしかば、人々少し色直つて見えさぶらひし程に、一の谷といふ所にて一門多くほろびし後は、直衣束帯をひきかへて、くろがねをのべて身にまとひ、明けても暮れても軍呼の声絶えざりし事、修羅の闘諍、帝釈の諍も、かくやとこそおぼえさぶらひしか。

~「一谷を攻め落されて後、おやは子に遅れ、妻は夫にわかれ、沖につりする船をば敵の船かと肝をけし、遠き松にむれゐる鷺をば、源氏の旗かと心をつくす。さても門司・赤間の関にて、いくさはけふを限と見えしかば、二位の尼申し置く事さぶらひき。「男のいき残らむ事は千万が一もありがたし。設ひ又遠きゆかりはおのづからいきのこりたりといふとも、我等が後世をとぶらはむ事もありがたし。昔より女は殺さぬ習ひなれば、いかにもして永らへて主上の後世をも弔ひ参らせ、我等が後生をも助け給へ」とかき口説き申しさぶらひしが、夢の心地しておぼえさぶらひし程に、風にはかにふき、浮雲あつくたなびいて、兵心をまどはし、天運つきて人の力に及びがたし。既に今はかうと見えしかば、二位の尼先帝をいだき奉りて、ふなばたへ出でし時、あきれたる御様にて、「尼ぜわれをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰せさぶらひしかば、いとけなき君に向ひ奉り、涙をおさへて申しさぶらひしは、「君はいまだ知ろし召されさぶらはずや。先世の十善戒行の御力によッて、今万乗のあるじとは生れさせ給へども、悪縁にひかれて御運既につき給ひぬ。まづ東に向はせ給ひて、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむと思し召し、西に向はせ給ひて御念仏侍らふべし。此国は心うき堺にてさぶらへば、極楽浄土とてめでたき所へ具し参らせ侍らふぞ」と泣々申しさぶらひしかば、山鳩色の御衣に鬢いはせ給ひて、御涙におぼれ、小さううつくしい御手をあはせ、まづ東をふし拝み、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西に向はせ給ひて、御念仏ありしかば、二位の尼やがていだき奉りて、海に沈し御面影、目もくれ、心〕も消えはてて、わすれんとすれども忘られず、忍ばむとすれども忍ばれず、残りとどまる人々の喚き叫びし声、叫喚大叫喚の炎の底の罪人も、これには過ぎじとこそおぼえさぶらひしか。

~さて武共にとらはれてのぼりさぶらひし時、播磨国明石浦について、ちッとうちまどろみてさぶらひし夢に、昔の内裏にははるかにまさりたる所に、先帝をはじめ奉りて、一門の公卿殿上人みなゆゆしげなる礼儀にて侍ひしを、都を出でて後かかる所はいまだ見ざりつるに、「是はいづくぞ」ととひ侍ひしかば、二位の尼と覚えて、竜宮城と答へ侍ひし時、「めでたかりける所かな。是には苦はなきか」ととひさぶらひしかば、「竜畜経のなかに見えて侍らふ。よくよく後世を弔ひ給へ」と申すと覚えて夢さめぬ。其後はいよいよ経をよみ念仏して、彼の御菩提を弔ひ奉る。是皆六道に違はじとこそおぼえ侍へ」と申させ給へば、法皇仰せなりけるは、「異国の玄弉三蔵は、悟りの前に六道を見、吾朝の日蔵上人は、蔵王権現の御力にて六道を見たりとこそ承れ。是程まのあたりに御覧ぜられける御事、誠にありがたうこそ候へ」とて、御涙にむせばせ給へば、供奉の公卿殿上人もみな袖をぞしぼられける。女院も御涙をながさせ給へば、つき参らせたる女房達もみな袖をぞぬらされける。


建礼門院の話をよくよく分析してみると、そこには畜生道についての言及がない。このことは古来平家物語贔屓にとって不可解な点であった。そこで様々な解釈がなされてきたのであるが、ここではその一つとして、丸谷才一の説を紹介して置きたい。丸谷は、平家物語とは親戚の関係にある源平盛衰記や平家物語の異本などをもとに、建礼門院の話にはもともと畜生道についての話もあったのではないか。それが、覚一本から除外されてしまったのは、その話があまりにもえげつなくて、建礼門院の女人成仏について語ることを本旨とする灌頂の巻には相応しくないと判断されたからではないかと推測した。

そのえげつない話とは、建礼門院が男たちに弄ばれたという話なのではないか、と丸谷は推測するのである。建礼門院は、命を救われたあと義経の慰み者になったが、それ以前に、海に浮かぶ船の中で兄弟たちの添え寝の相手をさせられたと噂を立てられている。また、後白河法皇とも男女の仲にあって、法皇が寂光院に女院を訪ねたのは、特別の目的があったからで、その訪問の回数も、灌頂の巻では一回だけとなっているが、実は何度にもわたる頻繁なものだったのではないか、というのである。






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