山陽紀行(その三):尾道市街

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(千光寺山ロープウェー)

六月九日(木)夜来雨激しく降りをりしが九時頃にやむ。昨夜の仲居朝餉の案内に来りていふ、大変な降りやうですが雨漏りはせなんでしたか、と。おいおいしょっちゅう雨漏りがするのかね、と聞くに、なにしろ建物が古うござりますから、と呑気な顔つきなり。確かに雨漏りこそせざれ、床が音を発するなど、古さを感ぜしむる建物なり。

一階大広間にて朝餉をなす。同座するもの我らの外二組なり。そのうち一組は子連れの若き夫婦にて、生まれたばかりの子を座布団にくるみて床に置き、自分らは出されたる料理をうまさうに食ひゐたり。鯛の味噌汁をはじめ食欲をそそる朝餉なりき。

雨のやむを見届けて九時半頃外出す。まづロープウェーに乗りて千光寺山に上り尾道市街を俯瞰せんとす。このロープウェーは新藤兼人の映画「裸の島」にも写されてあり、なかなかの情緒を感ぜしむ。わずか三分にして山上に達する間、眼下に尾道の市街を見ることを得るなり。山上に展望台あり。そこより尾道市街を俯瞰するに、狭隘なる水路を挟んで尾道市街と向島相対してあり。尾道市街は海岸に沿って細長く展開し、向島には造船所の施設立ち並びてあり。映画「故郷」には日立造船所と思しき大規模工場紹介せられてありしが、そのほかにもいくつかの造船所甍を並べてあり。まさに造船の島といふべし。

千光寺山にはその名のとほり千光寺といふ古刹あり。そこよりも尾道の市街を展望しうるなり。我ら断崖に突き出たる展望台より眼下を見下ろしゐたるに、寺守女と思しき老女より声をかけらる。どこからおいでなさいましたか、と問ふ故東京方面からと答ふ。しかして、尾道には造船所が多いので驚きました、造船所は空襲のターゲットになったはずですから、さぞ大きな被害を受けたでしょう、といふに、老女さにあらず、といふのも尾道の造船所は米軍捕虜を多く勤労せしめたるゆゑに、米軍は捕虜の殺害を恐れて尾道を空襲せざりしなり、と答ふ。道理で尾道には古い建物多く残存するなり。我らの宿泊する魚信も空襲を逃れたるなるべし。

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(尾道の坂道)

千光寺より文学の小道なるものを散策す。これは尾道に縁ある文学者の旧居を結ぶものにて、山腹に沿ってくねくねと曲がりながら続く坂だらけの道なり。沿道には中村憲吉、志賀直哉の旧居などあり。まず中村憲吉の旧居なるものを見るに、二間をつなぎたるのみの質素な家にて便所も台所もなし。恐らくは住居といふより書斎として使はれしなるべし。その近所に憲吉の歌を刻みし碑あればそれを読むに、男女の慕情を甘ったるく読みゐたり。通読にたへず。中村憲吉といふ歌人はアララギ派の悪い面を代表するものといふべきか。

文学記念室といふものは個人の邸宅を改造したるものにて、内部には林芙美子ほか尾道に縁ある文人の遺品など展示してあり。館員の翁のいふところによれば、この屋敷は個人の邸宅として重文指定されをる稀有のものなる由。先日は建築家が調査に来りしが良い材料を使ひをるとて大いに感心せしと言ふ。この翁は文学者の事蹟よりも建築物のはうに関心あるものの如し。

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(志賀直哉旧居)

志賀直哉の旧居なるものは山腹の中途にありて眼下に尾道の市街を一望しうるなり。館員の老女我らのために説明していふには、直哉はここに一年住み小説「暗夜行路」を執筆せり。三間並んだ一番奥の部屋が直哉の起伏せし部屋なり、そこより尾道の市街を一望しうるなり、直哉はその眺めやらこの部屋での暮らしぶりやらを克明に小説に描きしなり、といひて「暗夜行路」の一節を高らかに朗読したり。

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(尾道の猫)

この文学の道沿にはいたるところ猫の姿を見る。尾道はどういふわけか猫を可愛がる人々多く、猫もそれを察知して大勢集まり来る由なり。彼ら人間を自分の仲間とみをるやうにて、一向に人間をおそるる様子なし。公園のベンチやら道端の一角を占拠して思ひのままに寛ぎゐたり。

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(林芙美子像)

天寧寺の脇をとほりて平地に下り駅に向かって歩む途中、道の一角に林芙美子の像を見る。芙美子は下関の生まれなれど、少女時代の六年間尾道に住み、当地の女学校に通ひしなり。地元では尾道出身の文学者として敬愛せられをるやうなり。

駅前広場の食堂に入り尾道ラーメンを食ふ。実をいへば尾道ラーメンを食ふことこそこの旅の大いなる目論見なりけれ。しかるにインターネット情報に人気のある店はことごとく定休日とて営業せずしてあり。よってやむなくこの店に入りしなれど、味必ずしも美ならず。むしろまずいといふべきなり。余聊か憮然たり。






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