高橋英夫「西行」

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我々現代人にとっての西行像は、芭蕉をとおして浮かび上がってくるのが相場になっていて、おのづから旅を住処とする漂泊の歌人というイメージになるのだが、高橋英夫のこの本は、西行をもっと広い視点から捉えなおしている。その結果あらたに浮かび上がってくる西行像は、ごく単純化して言えば、世俗を捨てこの世から超絶した旅の僧というイメージではなく、生涯世俗に捉われた煩悩の人だったというイメージだ。

西行が出家したのは若干23歳のときである。どのような動機が西行を出家させたか、詳しい事情はこれまで明らかにされていなかったし、この本でもやはり明らかにはされない。これまでにわかっていることで、この本でも追認されたことは、西行が出家後も世俗とのかかわりを捨てなかったばかりか、生涯世俗の煩悩に捉われ続けたということだ。

西行が武士の出自だということはこれまでも触れられてきたが、武士佐藤義清と歌僧西行との関連はあまり明らかにはされてこなかった。というか、歌僧西行は武士佐藤義清とは断絶したものとしてとらえられるのが普通だった。高橋はこの断絶した部分を結びつけて、武士佐藤義清と歌僧西行とを連続した一人の人間として捉えなおしたわけである。

出家後の西行が、死ぬまで武士としての矜持を持ち続けていたことを示す例として、高橋は二つのことをあげている。ひとつは、壮年の頃の神護寺の僧文覚との対決である。文覚は、やはり武士の出自で、出家後もさまざまな武勇伝が伝わる人物だ。その文覚が始めて西行とあったときに、西行の放つオーラのようなものに感服して、「あれは文覚に打たれんずる者の面やうか、文覚をこそ打たんずる者なれ」と言った。この逸話は、西行が僧となった後も、武士としての迫力を人に感じさせていたということを物語っている。

もうひとつは、晩年におこなった陸奥への旅である。馬歯六十八の年に行ったこの旅は、その途中で、あのあまりにも有名な歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」を生んだことで知られるが、これは東大寺再建の灌頂のために行ったものといわれる。西行が灌頂に向かった奥州の藤原氏(佐藤氏)は西行の前身たる佐藤義清の同族であり、その誼を頼ったのだと言われるが、これは出家してもなお、武家社会との強いつながりを保っていたことの表れと言える。この旅の途中、西行は源頼朝と面会しているが、これも西行の武士としての矜持の現われだったと言える。

こうした例を通じて高橋が言いたかったのは、西行が生涯にわたって俗世間への執着を捨てきれなかったということである。その執着は、彼の歌に恋を歌ったものが多いことに伺われる。僧侶が恋を歌うことは、古今集の時代から珍しいことではなかったが、西行ほど、僧侶の身で恋を歌ったものはいない。恋は現世への執着の最たるものであるが、恋のほかにも、西行には現世への執着を歌った歌が非常に多い。それらの歌を読んでいると、西行という人間が、煩悩の塊であり、それを本人が十分に自覚していたことが伺われる、と高橋はいいたいようなのである。

そんなわけでこの本は、西行の、芭蕉以降流通している孤高の旅人というイメージとはまた違った西行像を提示しているといえる。





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