2016年7月アーカイブ

浅茅が宿(三):雨月物語

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 此の時、日ははや西に沈みて、雨雲はおちかゝるばかりに闇けれど、舊しく住みなれし里なれば迷ふべうもあらじと、夏野わけ行くに、いにしへの繼橋も川瀬におちたれば、げに駒の足音もせぬに、田畑は荒たきまゝにすさみて、舊の道もわからず、ありつる人居もなし。たまたまこゝかしこに殘る家に人の住むとは見ゆるもあれど、昔には似つゝもあらね。いづれか我が住みし家ぞと立ち惑ふに、こゝ二十歩ばかりを去りて、雷に摧かれし松の聳えて立てるが、雲間の星のひかりに見えたるを、げに我が軒の標こそ見えつると、先づ喜しきこゝちしてあゆむに、家は故にかはらであり。人も住むと見えて、古戸の間より燈火の影もれて輝々とするに、他人や住む、もし其の人や在すかと心躁しく、門に立ちよりて咳すれば、内にも速く聞とりて、誰そと咎む。いたうねびたれど正しく妻の聲なるを聞きて、夢かと胸のみさわがれて、我こそ歸りまゐりたり。かはらで獨自淺茅が原に住みつることの不思議さよといふを、聞きしりたればやがて戸を明るに、いといたう黒く垢づきて、眼はおち入りたるやうに、結げたる髪も脊にかゝりて、故の人とも思はれず。夫を見て物をもいはで潸然となく。

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世界映画ランキングのベスト・ワンと言えば、長い間オーソン・ウェルズの「市民ケーン」の指定席のようなものだったが、21世紀になってまもなく、イギリス映画協会がヒッチコックの「めまい(Vertgo)」をベスト・ワンに選んで以来、多くの国でそれに追随する動きが広がり、いまやこれこそ世界映画史上最高の作品だと言う評価が定着するようになってきた。

トカゲ脳のバッシャーたち

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SNSの普及にともない目立ってきた現象として、いわゆるバッシングの蔓延がある。バッシンは様々な対象に向けられ、それらはだいたい異様な感じを与えるのが多いが、なかでも異様なのは、ボランティア活動に向けられたものだ。特に芸能人などが、大震災の犠牲者となった人々にボランティアの手を差し伸べると、それを売名行為だなどと貶めてバッシングするケースが目立つが、これなどは、異様さを通り越して背筋の寒くなるような不気味さを感じさせる。

銀地山水図屏風:蕪村の世界

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(右隻 166.9×363.7cm 紙本銀地墨絵淡彩 六曲一双)

「銀地山水図屏風」は天明二年、すなわち蕪村馬歯六十七、死の前年の作で、蕪村の南宋画の集大成と言えるものである。紙の上に銀箔を貼り、その上に墨と淡彩で描いている。左右どちらも、右肩に七言絶句を書き、それらの詩意を絵の中で展開している。

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ダンテとヴィルジリオは険しい岩を登り、次の橋の閘門をわたって第八の嚢に踏みこむ。すると、嚢の地底に沿って、巨大な炎の玉が過ぎてゆくのが見える。その一つにダンテらは目を留める。その炎の玉の中には、ギリシャの英雄ユリシーズとディオゲネスが包まれていたのである。

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「二人の紳士と女」は、「士官と笑う娘」、「紳士とワインを飲む女」同様ワインによる女性の誘惑をテーマにしている。この絵は特に後者の「紳士」との連続性を強く思わせる。四葉のクローバー模様をあしらった窓、市松模様の床のカーペットなどから、同じ部屋を背景にしていることがわかるし、男が女にワインを飲ませようとしている構図も共通している。そんなところからこの二つの作品は、相前後して描かれたと考えられる。

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アルフレッド・ヒッチコックの1956年公開の映画「知りすぎていた男(The Man Who Knew Too Much)」は、暗黒組織の国家的な陰謀をテーマにしている点で、「三十九夜」とよく似ている。「三十九夜」は、陰謀に巻き込まれた男が、偶然知り合った女性とともに、少ない手がかりをもとに陰謀を解明し、自分の身の潔白を証明するところを描いていたが、「知りすぎた男」は、国家的な陰謀に巻き込まれたうえに息子をさらわれた夫婦が陰謀を暴いて息子を取り戻すところを描いている。

柄谷行人の現代資本主義論

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柄谷行人は「世界共和国へ」と「憲法の無意識」のなかで彼独自の資本主義論を展開している。独特のフレームワークを用いて、世界経済の発展の傾向と、その帰結としての現代世界経済の本質的なあり方について説明しようとするものだが、彼の最大の特徴は国家を経済の成立基盤と見ることだ。国家は経済が成立する以前から存在し、経済が発展する上での条件となっている。マルクスのいうように、経済が国家を規定するのではなく、国家が経済を規定する、そういう考え方にたって、経済現象を説明しようと言うのが、彼の理論の最大の特徴である。

烏図:蕪村の世界

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「鳶烏図」双幅のうちの烏図。雪の降り積もった木の枝に二羽の烏がとまり、なにやら思案げふうに見えるこの絵は、芭蕉の句「日ころ憎き烏も雪の旦(あした)かな」をイメージ化したものだと思われる。烏は憎い生き物だが、このように風雪に耐えている姿はけなげに見えるという趣旨の句で、この絵はまさにその雰囲気をそのままに伝えていると言ってよい。

本居宣長「直毘霊」

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「直毘霊(なほびのみたま)」は「古事記伝」の序に当たるものだが、古事記伝の刊行に先立って独立した著作として発表された。宣長自身が言っているように、道について論じたものである。表題の「直毘霊」とは「直毘神」の霊という意味であるが、直毘神は穢れを払い、禍を直す神とされているとおり、直毘神の霊を以てわが国に取り付いた穢れを祓い清め、わが国固有の道を明らかにしようとしたものである。ここで祓い清めるべき穢れとされているものは異国の悪しき影響であり、わが国固有の道とされているものは、皇祖神天照大神によって示された日本人として歩むべき尊い道のことを言う。したがってこの書は、激しい排外主義と神がかった国粋主義を煽ったものとして、日本の思想史上にきわめてユニークな位置を占めるものである。

浅茅が宿(二):雨月物語

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 年あらたまりぬれども猶をさまらず、あまさへ去年の秋、京家の下知として、美渡の國郡上の主、東の下野守常縁に御旗を給びて、下野の領所にくだり、氏族千葉の実胤とはかりて責むるにより、御所方も固く守りて拒ぎ戰ひけるほどに、いつ果つべきとも見えず。野伏等はこゝかしこに寨をかまへ、火を放ちて財を奪ふ。八州すべて安き所もなく、淺ましき世の費なりけり。

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ヒッチコックは「ロープ」において、マンションの一室を舞台にした一場ものの作品を作ったが、「裏窓(Rear Window)」もその延長といえる作品である。全編が一つの場面に固定されている。両者の違うところは、「ロープ」では部屋の中に据えられたカメラが、部屋の中だけを写すのに対して、「裏窓」では部屋の中に据えられたカメラが、部屋の中だけではなく、部屋の外も映し出すところだ。

相模原市の障害者施設で起きた重度心身障害者の大量殺害が社会に衝撃をもたらしている。事件を起こした犯人がこの施設に勤めていた福祉関係の職員であったこと、殺された障害者が十九人にものぼり、その他に二十数名の障害者が重軽傷を負わされたこと、それらの障害者の殆どが深夜寝ている間に、全く抵抗もできない状態で次々と首をナイフで掻き切られて殺されたり重傷を負わされたこと、凶行の間施設の職員が捕縛されて身動きできない状態に置かれていたこと、どれをとっても陰惨極まりない犯罪だ。日本の犯罪史上過去に例のないものであり、日本もついにここまで来たかと国民誰をも慄然とさせるものだ。

鳶図:蕪村の世界

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「鳶烏図」と題した双幅一対のうちの鳶を描いたもの。空中に突き出た枯れ枝に一羽の鳶がとまり、烈しい風雨に耐えているように見えるこの図は、去来の句「鳶の羽も刷(かいつくろ)ひぬ初時雨」をイメージにしたものだと指摘されている。

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引き続き、蛇に襲われたブオーゾが、変身させられる。なお、三人目の亡者はプッチョだと分かったが、彼は他の二人のように変身させられることはなかった。

牛乳を注ぐ女:フェルメールの女性たち

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「牛乳を注ぐ女」は、フェルメールの絵の中では「真珠の耳飾の少女」と並んで有名な作品である。この作品は早い時期から特別の評価を得ていた。そのことは1696年にフェルメールの遺作が売りに出されたとき、小品であるにかかわらず破格の値段が付けられたことに現れている。この作品の何が、高い評価につながったのか。

村上春樹「村上朝日堂はいほー!」

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村上春樹のエッセー集「村上朝日堂はいほー!」は、「ハイファッション」という女性向けのファッション誌に、1983年から5年にわたって連載したエッセーを集めたものだ。村上はほぼ同じような時期に別の女性ファッション誌にエッセーを連載している(のちに「ランゲルハンス島の午後」となる)ので、ファッション業界から人気があるのかもしれない。といってもエッセーの内容は、ファッションとはほとんど関係なく、村上自身の身辺雑記とでもいうようなものである。題名の「村上朝日堂」は、この時期の村上のエッセー集によく使われたものだが、内容をわかりやすくするには、「ムラカミハルキ自分自身を語る」としたほうがよかったかもしれない。

浅茅が宿(一):雨月物語

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 下総の國葛錺都眞間の郷に、勝四郎といふ男ありけり。祖父より舊しくこゝに住み、田畠あまた主づきて家豊かに暮しけるが、生長りて物にかゝはらぬ性より、農作をうたてき物に厭ひけるまゝに、はた家貧しくなりにけり。さるほどに親族おほくにも疎じられけるを、朽をしきことに思ひしみて、いかにもして家を興しなんものをと左右にはかりける。其の比雀部の曾次といふ人、足利染の絹を交易するために、年々京よりくだりけるが、此郷に氏族のありけるを屡來訪らひしかば、かねてより親しかりけるまゝに、商人となりて京にまうのぼらんことを頼みしに、雀部いとやすく肯がひて、いつの比はまかるべしと聞えける。他がたのもしきをよろこびて、殘る田をも販りつくして金に代へ、絹素あまた買積みて、京にゆく日をもよほしける。

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「ダイアルMを廻せ(Dial M for Murder)」は、完全犯罪の目論見を描いた映画だ。目論見というのは、完全犯罪が思惑通りに完結しないで、犯罪が最後には暴露してしまうからだ。暴露してしまった犯罪は完全犯罪とはいえない。そこで目論見というわけである。

富嶽列松図:蕪村の世界

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「富嶽列松図」は、延々と連なる松の林の背後に浮かび上がった富士の勇壮な姿を描いたもの。横に細長い画面を生かして、松林の長く連なるさまと、それに富士が覆いかぶさるように聳える様子が心憎く演出されている。富士が中心より右側に描かれている為、鑑賞者の視線は右から左へ動くように導かれ、その視線の先の左端の画面がわざとぼやけているのは、時雨を表現したのだと解釈される。

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フッチが立ち去った後に、その場には他の二人の亡者が残ったが、彼らに今度はトカゲと蛇が襲い掛かった。とりわけその一人に襲い掛かった蛇は、相手に絡みつき、フッチと同じように変身させてしまう。この変身させられたものは、ブオーゾと言った。

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「紳士とワインを飲む女」は、「士官と笑う娘」とよく比較される。両者とも若い娘がワインを飲むところをテーマにしながら、そこに男女の愛を絡ませている。また、若い娘がワインを飲むことは公序良俗に反しているのだとの寓意を込めている。といった具合に両者の共通性を強調する見方もあれば、構図の相違に着目する見方もある。いづれにしてもこの二つの作品は、遠くない時期を挟んで製作されたと考えられる。

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アルフレッド・ヒッチコック( Alfred Hitchcock )の映画「見知らぬ乗客( Strangers on a Train )」は、サイコ・サスペンスの秀作と言ってよいだろう。サイコ・サスペンスとは、精神異常者の異常な言動に善良な人々が振り回されるというパターンが主流で、同じくヒッチコックの作品「サイコ」がその頂点をなす。「見知らぬ乗客」は、その走りをなすものと位置付けてよい。

柄谷行人「憲法の無意識」

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「憲法の無意識」は、昭和憲法や現代資本主義について柄谷なりに考えてきた事柄を文章にしたものをまとめたものだ。それゆえ一冊の本としてはまとまりがないという印象を受けるが、取り上げられている個々のテーマについては、それなりのインパクトを感じさせる。

峨眉露頂図巻:蕪村の世界

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(右半分)

「峨眉露頂図巻」の「峨眉」とは、李白の詩「峨眉山月歌」で歌われた四川省の山、山容の美しさから美人の眉に喩えられた。この絵は、その峨眉山の頂上を描く。「露頂」とは、山の頂上があらわになった様子を言う。

本居宣長「宇比山踏」

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「宇比山踏」は、本居宣長の「学問の進め」というか、学問の手ほどきというようなものである。宣長は学問を日本の古い時代を研究する学問、すなわち古学だとしているので、この書物は「古学入門」と言ってもよい。宣長は古学の意義について色々な書物のなかで折に触れて強調していたが、この書物の中でそれを体系的に述べたのである。

菊花の約(五):雨月物語

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 明くる日、左門母を拝していふ。吾幼なきより身を翰墨に托するといへども、國に忠義の聞えなく、家に孝信をつくすことあたはず。徒に天地のあひだに生るゝのみ。兄長赤穴は一生を信義の爲に終る。小弟けふより出雲に下り、せめては骨を藏めて信を全うせん。公尊體を保ち給ふて、しばらくの暇を玉ふべし。老母云ふ。吾兒かしこに去るとも、はやく歸りて老が心を休めよ。永く逗まりてけふを舊しき日となすことなかれ。左門いふ。生は浮きたる泡のごとく、旦にゆふべに定めがたくとも、やがて歸りまいるべしとて、泪を振ふて家を出づ。佐用氏にゆきて老母の介抱を苦<ねんごろ>にあつらへ、出雲の國にまかる路に、飢ゑて食を思はず、寒きに衣をわすれて、まどろめば夢にも哭きあかしつゝ、十日を経て冨田の大城にいたりぬ。

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アルフレッド・ヒッチコック( Alfred Hitchcock )の映画「ロープ( Rope )」は、色々な点で映画作りの常識を破るような作品である。まず、構成が型破りだ。作品全体が、ワンシーン・ワンカットでできている。舞台はマンションの一室で、そこに複数の登場人物が出てきて、様々な会話を交わすという設定だ。まるで、一幕ものの舞台を見ているような感じなのだ。舞台と違うところは、適度にカメラアングルを変えたり、クローズアップを挟んだりして画面にある程度の変化をもたらしているところだが、それにしても、普通の映画とは全く違うイメージでできている。

夜色楼台図:蕪村の世界

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「夜色楼台図」は、蕪村の山水画の到達点を示すもので、彼の代表作とされ、国宝にもなっている。山水画は中国の南宋画をモデルとし、蕪村もそれを手本にして出発したわけだが、この絵にいたって、南宋画の影響を脱し、蕪村独特の境地を描き出している。

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引き続き、ブルネレスキが蛇に巻きつけられ、蛇と一体化したあとで、全く異形のものへと変わってゆく様が語られる。

ハゲがいない時代:人類史の新たな段階

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「ハゲがいない時代」がやってくるというニュースを見て複雑な気持ちになった。再生医療の発展の一環として、毛髪の再生の研究が進んでいて、他の器官に先駆けて実用化される日が近いのだという。実用化されれば、薄毛の人には福音となるし、すでにハゲてしまった人にももう一度毛が生えてくる望みがあるそうだ。

士官と笑う娘:フェルメールの女性たち

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「士官と笑う娘」は1658年頃、「窓辺で手紙を読む女」の翌年あたりに製作されたと考えられる。絵の舞台となっている室内空間が、「窓辺」と同じ部屋の空間であることが、窓の形からわかる。両者で異なるのは、この絵の中では壁に地図がかかっていることだ。この地図は、フランドル地方を、南北軸ではなく東西軸で描いている。当時地図は高価な貴重品であったから、これを絵の中で見せびらかすことで、この空間の知的雰囲気を強調しているのだとも考えられる。

村上春樹、安西水丸「日出る国の工場」

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「日出る国の工場」は、村上春樹と安西水丸のコラボレーションによる工場見学記である。例によって村上が文章を書き、安西がそれに絵を添えている。彼らが何故工場の見学記を作ろうという気になったか、詳しいことには触れていないが、そのきっかけの一端のようなものを村上が書いている。それによれば村上は、子どもの頃学校の遠足で工場見学をした記憶がなつかしくて、大人になってからもそのなつかしさに心ひかれて、工場を訪ねる気になったらしい。安西のほうは、それにお付き合いをしたということか。

菊花の約(四):雨月物語

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 左門いふ。井臼の力はもてなすに足らざれども、己が心なり。いやしみ玉ふことなかれ。赤穴猶答へもせで、長嘘をつぎつゝ、しばししていふ。賢弟が信ある饗應をなどいなむべきことわりやあらん。欺くに詞なければ、実をもて告ぐるなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は陽世<うつせみ>の人にあらず。きたなき靈のかりに形を見えつるなり。

おくりびと:滝田洋二郎

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滝田洋二郎の映画「おくりびと」は、納棺業の世界を描いた作品だ。納棺というのは、葬儀にかかわる業務の一つで、死者を棺に納める仕事のことである。棺に納めるに当たって、遺体の清浄とか死装束を施すという作業を併せて行う。葬儀という儀式は、死者をあの世に送り出すということから、それにたずさわる人々はみな「おくりびと」と言ってよいのかも知れぬが、死者にかかわる葬儀の中でも、納棺という仕事をする人は、直接死者に触れるということから、この「おくりびと」という言葉がもっともふさわしいと言えよう。

竹林茅屋・柳蔭騎路図屏風:蕪村の世界

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(右隻 133.2×310.0cm 紙本彩色 六曲一双)

「竹林茅屋・柳蔭騎路図屏風」は、右隻が「竹林茅屋」を、左隻が「柳蔭騎路」を描く。「竹林茅屋」は、右端の曲面に「聯珠詩格」巻十二から「邨居」の詩文を記す。絵はその詩の内容を視覚化したものである。詩の内容は、「独木為橋過小村 幾竿脩竹護柴門 白頭不識王侯事 関把牛経教子孫」というものである。

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三人の亡者のうちの一人に、六本脚の蛇が巻き付き、その体を締め付けるうちに、亡者と蛇とは一体化して、まるでひとつの生き物のような観を呈する。それを見た他の二人の亡者は、驚愕の叫び声を上げる。彼らの発する言葉によって、蛇に締め上げられた亡者はブルネレスキだとわかる。(アーニエルはブルネレスキのこと)

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「窓辺で手紙を読む女」は、「眠る女」のすぐ後に製作されたと考えられるが、この短い間にフェルメールの腕前は飛躍的に高まった。まず光の処理がうまくなった。「眠る女」では、光の効果は絵の前面に集中し、そのため全体のバランスが悪くなっていたのに、この絵では、左側の窓を光源として画面全体にゆきわたっている。そのおかげで全体のバランスがよくなり、また光が一定の方向に向かっているため、陰影もダイナミックに表現されている。構図もすっきりしている。

新樹郊行図:蕪村の世界

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蕪村の画業の大きな特徴として、道を繰り返し描いたことがある。その道を行く人は、深山幽谷に隠士を訪ねる人であったり、あるいは郊外や山里にピクニック気分で出かける人であったりする。「新樹郊行図」と題したこの絵は、後者のようである。

本居宣長「排蘆小船」

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「排蘆小船」は本居宣長の処女作と目されている。執筆時期は京都遊学中(宝暦二年乃至同七年)かその直後、宣長二十代のことと推測される。論じているテーマは「歌」である。その点、後年の歌論「石上私淑言」と重なり合うというか、ほとんど同じ議論を展開しているところから見て、両者は問題提起とそれへの完成した受け答えというような関係(萌芽と成熟の関係と言ってもよい)にある。だから「石上私淑言」を読めば、宣長の歌についての考え方は一応了解できるのであるが、「排蘆小船」にはそれなりの面白さもあるので、少なくとも読んで損することはないだろう(以下テクストには中公版「日本の名著」所収、萩原延寿による現代語訳を用いる)。

菊花の約(三):雨月物語

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 あら玉の月日はやく經ゆきて、下技の茱萸色づき、垣根の野ら菊艶<にほ>ひやかに、九月にもなりぬ。九日はいつよりも蚤<はや>く起出て、草の屋の席をはらひ、黄菊しら菊二枝三枝小瓶に挿し、嚢をかたふけて酒飯の設けをす。老母云ふ。かの八雲たつ國は山陰の果にありて、こゝには百里を隔つると聞けば、けふとも定めがたきに、其の來しを見ても物すとも遲からじ。左門云ふ。赤穴は信ある武士なれば必ず約を誤らじ。其人を見てあはたゝしからんは思はんことの恥かしとて、美酒を沽ひ鮮魚を宰て厨に備ふ。

ALWAYS 三丁目の夕日:山崎貴

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「ALWAYS 三丁目の夕日」は、昭和33年(1958)頃の東京の庶民生活を描いた映画だ。昭和33年といえば、東京でアジア大会が開かれ、東京タワーが登場した年だ。東京が戦後の瓦礫を乗り越えて、復興に向けて前進の歩みを力強く加速させた年である。だから、人々の心の中には、戦争への辛い記憶と、将来への希望とが入り混じっていたことと思う。この映画は、その明るい希望に焦点をあてて、当時の人々の暮らしぶりを描き出した。

竹渓訪隠図:蕪村の世界

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「竹渓訪隠図」は、題名からも明らかなとおり、山中に隠居する高士を人が訪ねるというモチーフを描いている。画面は霞の介在によって上下に分割され、下界には竹林と渓流とが、上界には峰々が聳え立っている。峰の描き方は、手前を明瞭に、遠くを青くぼかすことで、遠近感を演出している。

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フッチが逃げ去った後、それを追いかけるように一体のケンタウロスが現れる。そのケンタウロスはカクスという名で、自らおかした悪行のために、他のケンタウロスの仲間からはずれて単独行動をしているのだと、ヴィルジリオが言う。

三粋人経世問答:2016参院選を語る

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無覚先生:今回の参院選も、前回の2013年に引き続き与党が勝ちました。自公あわせると70議席で、改選議席総数121議席の過半数を上回った。非改選議席とあわせると146議席となり、トータルでも大きく過半数を上回ることになる。これに大阪維新の会などをあわせれば、参議院での改憲勢力が三分の二を上まわることとなり、衆議院とあわせて戦後始めて改憲勢力が国会での改憲発議権を持つ状況が生まれました。改憲を悲願としてきた安部晋三総理にとっては、千載一遇のチャンスが生まれたといってよい。そんなことから大方のメディアは、今回の参院選を改憲への大きな一里塚と位置づけているようです。今回の選挙では、一人区での野党統一候補だとか、いままでにない戦術があったりしてそれなりに動きを感じさせましたが、結果的には与党の圧勝になった。その要因をどう考えるか、その辺のところから入っていきましょう。俄然坊さんからどうぞ。

眠る女:フェルメールの女性たち

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「眠る女」は、「取り持ち女」と同時期かその直後に描かれたと考えられる。カラヴァッジオの影響で光を強調しようとしながら、それを前面の一部の空間に限定した為に、構図上のバランスが崩れ、その結果技巧的な未熟さを感じさせるからだ。だが、一人の女性に焦点を当てていること、歴史や宗教への感心を感じさせないことなどは、その後の作風に通じるところがあり、フェルメールの画業の中での過渡的な作品だと位置づけることができよう。

「夢で会いましょう」は、村上春樹と糸井重里のコラボレーションである。村上が前書きを、糸井が後書きを担当している。一冊の本を読むときには後書きから読む習性を持つ筆者はまず糸井の書いた後書きを読んでみた。するとそこには、「ムラカミハルキの前書きを読んだら、すぐに私の書いたこの後書きを読むといった、そういったやさしさを私は望んでいる」と書いてあった。筆者は、ムラカミハルキの前書きよりも、糸井の後書きから先に読んだわけだから、糸井にとっては十分にやさしい読者であるわけだ。

菊花の約(二):雨月物語

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 故出雲の國松江の郷に生長<ひとゝなり>て、赤穴宗右衞門といふ者なるが、わづかに兵書の旨を察<あきらめ>しによりて、冨田の城主塩冶掃部介、吾を師として物斈<まな>び玉ひしに、近江の佐々木氏綱に密の使にえらばれて、かの舘にとゞまるうち、前の城主尼子經久、山中黨をかたらひて大三十日の夜不慮に城を乘とりしかば、掃部殿も討死ありしなり。もとより雲州は佐々木の持國にて、塩冶は守護代なれば、三沢三刀屋を助けて、經久を亡ぼし玉へとすゝむれども、氏綱は外勇にして内怯たる愚將なれば果さず。かへりて吾を國に逗む。故なき所に永く居らじと、己が身ひとつを竊みて國に還る路に、此疾にかゝりて、思ひがけずも師を勞しむるは、身にあまりたる御恩にこそ。吾半世の命をもて必づ報ひたてまつらん。

パッチギ!:井筒和幸

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2006年の1月に公開された映画「パッチギ!」は、在日朝鮮人と日本人の軋轢を描いたものだ。要するに民族同士の軋轢がテーマなわけだが、軋轢といっても、日本国内を舞台としてのことだから、日本人による在日朝鮮人の迫害というような色合いが強い。だが、弱い立場のものが強い立場のものに一方的に迫害されているところを描いているかといえば、そうではない。この映画の中では、在日朝鮮人は、たしかに弱者としては描かれているが、卑屈な人間集団としては描かれておらず、差別をする日本人に立ち向かう勇敢な人間たちとして描かれている。

殺人ロボット時代

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殺人ロボットなどと言うとセンセーショナルに聞こえるが、ほかに適当な言葉がない。というのも、人を殺すことを目的に作られ、その目的を達成したロボットについて、これ以外にどんな言葉も思い浮かばないからだ。そのロボットは、先日テキサス州ダラスで発生した警官狙撃事件の犯人に対して出動した。この狙撃犯は、どうやら一人だけで、五人もの警察官を射殺し、そのほかにも多数の警察官や通行人に発砲して負傷させた。この犯人を始末するためにこのロボットが差しむけられたわけだ。そのロボットは犯人に近づいたところで自爆し、犯人は即死したということだ。

新緑杜鵑図:蕪村の世界

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「新緑杜鵑図」は、「謝寅」の署名があるところから、晩年の作だとわかる。蕪村が「謝寅」号を用いたのは、安永七年(1778)馬歯六十三歳の年から天明三年に六十八歳で死ぬまでの五年間。この絵は、蕪村晩年の傑作群を飾る嚆矢となるものである。

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傲岸不遜なフッチは、両手を高く上げ、指を突きだして神を侮辱する仕草をする。そこへすかさず蛇たちが呵責を加える。一匹の蛇は首に巻きつき、もう一匹が両腕に巻き付いて、彼を締め上げる。そのためフッチは貧乏ゆすりをすることもできない。

太陽が三つある惑星:HD 131399ab

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太陽が三つある惑星が発見された。ケンタウルス座の方角約340光年の距離にある惑星HD 131399abだ。イメージ図(K. Wagner et al)にあるように、中心部に大きな恒星があり、そこからかなりの距離を置いて、双子のような二つの恒星が絡み合いながら中心部の恒星の周囲を回っている。この中心の恒星と双子星の間に挟まれた空間に、この惑星は存在している。

取り持ち女:フェルメールの女性たち

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フェルメールには、製作年代の記載がある絵が3点だけある。「取り持ち女」はその最も古い作品で1656年の記載がある。フェルメールが24歳のときの作品である。この作品でフェルメールは、歴史画(宗教画)から風俗画に転じたと解説されているが、実はこの作品も、聖書の記述をテーマにしている点では、前作「マルタとマリアの家のキリスト」同様歴史画といえなくもない。

山野行楽図屏風:蕪村の世界

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(右隻 155.1×388.0cm 紙本淡彩 六曲一双)

蕪村の絵の大きな特徴は、自然の風景に必ず人物を添えることだ。その人物は、ほとんどの場合中国風の格好をしている。蕪村が何故、中国の服装に拘ったか、よくはわからない。蕪村ほどの名手ならば、和風の人物を配して、なおかつ南宋画風の情緒を感じさせる技に不足はないと思う。それをあえて、中国風の服装にこだわるのは、よほどの事情があるのか。

真夏にすき焼きを食いながら時事を談ず

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例の四方山話の連中と久しぶりに会った。場所は本郷の一角、梶子の勤め先の会社が運営する厚生施設のようなものだ。そこの二階の座敷を借りて、真夏だというのにすき焼き鍋をつつきながら、今日は六谷子が用意してきた自分史の話をみんなで聞いた。参加したのは、筆者及び六谷子のほかに、石、浦、岩、福、柳、小、梶、越の諸子だ。場所がわかりにくいせいで、道に迷うものが続出し、全員揃ったのは予定時刻を三十分近く過ぎた頃だった。

本居宣長の平安時代礼賛

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宣長にとっては、「古へ」こそが日本人の理想の時代であって、そこから時代が下るに従って日本人は理想から逸脱してきたと考えているようである。その理由は、時代が下るにつれ唐(から)の影響が日本人の間に浸透してきて、儒仏の考え方に捉われるようになり、日本人の本然の姿である「もののあはれ」を知る心が乱れてきた、ということらしい。だが宣長の面白いところは、理想としての「古へ」を、少なくとも歌や物語の領域においては、万葉や古事記の時代ではなく、平安時代の中期以降に設定していることである。そこからして歌の理想は「古今集」であり、せいぜい「後撰集」や「拾遺集」がそれに続く。一方、物語としては「源氏物語」が理想的なものとされる。どちらも、日本人の本然の姿である「もののあはれ」を知る心が貫かれているからだ、とする。

菊花の約(一):雨月物語

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 青々たる春の柳、家園に種ゆることなかれ。交りは輕薄の人と結ぶことなかれ。楊柳茂りやすくとも、秋の初風の吹くに耐へめや。輕薄の人は交りやすくして亦速やかなり。楊柳いくたび春に染むれども、輕薄の人は絶えて訪ふ日なし。

誰も知らない:是枝裕和

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是枝裕和の映画「誰も知らない」は、児童遺棄(子供置き去り)を題材にしたものだ。1988年に実際にあった事件をもとに2004年に映画化した。親が子供を見捨てたおかげで、取り残された子供たちが悲惨な境遇に陥り、そのあげく兄弟の一人が死んだという事件だったが、是枝は詳細については脚色を加えながら、事件の骨格をほぼそのまま再現したという。

闇夜漁舟図:蕪村の世界

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「闇夜漁舟図」は、水墨で闇夜を表現しながら、わずかな光を強調することで、独特の効果を演出している。光は、舟の上のかがり火から立ち昇る煙と、遠くに見える家の中からもれる灯りで表現される。煙はそれ自身が光を発するように見え、その光に浮かび上がった木の部分だけが、色彩を持っている。

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蛇に苛まれる盗賊のうちにひときわ目を引く者がいる。よく見ていると、その盗賊は蛇のために火で焼かれて灰になるのであるが、そのたびにもとの姿に復活する。するとまた蛇のために焼かれて再び灰になり、その後また復活する。この有様が永遠に続くことで、この亡霊は永遠の責苦にさらされるのだ。地獄に来てもなお、終りのない責苦、これこそ本当の地獄なのであろう。

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フェルメールが故郷デルフトの画家組合に入会を許されたのは1654年の暮れのことだ。その時フェルメールは弱冠22歳だった。まだ本格的な製作を始めていなかっただろうと思われる。彼のもっとも早い時期の作品は、「マルタとマリアの家のキリスト」と題したこの絵であるが、これは画家組合への入会前後に描いたと考えられる。

エッセー集「ランゲルハンス島の午後」は、1984年6月から二年間にわたって、女性向けファッション雑誌「CLASSY」に連載したエッセーを集めたものだ。もともとは「村上朝日堂画報」と題していたが、単行本にするにあたり、このような題名に改めたという。題名は収録エッセーのタイトルからとったもので、エッセー集全体の特徴等はとくに意識していないようだ。

白峰四:雨月物語を読む

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 時に峯谷ゆすり動きて、風叢林を僵<たを>すがごとく、沙石を空に卷上る。見る見る一段の陰火、君が膝の下より燃上りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり。光の中につらつら御氣色を見たてまつるに、朱をそゝぎたる龍顔に、荊<おどろ>の髪膝にかゝるまで乱れ、白眼を吊りあげ。熱き嘘<いき>をくるしげにつがせ玉ふ。御衣は柿色のいたうすゝびたるに、手足の爪は獣のごとく生ひのびて、さながら魔王の形あさましくもおそろし。空にむかひて相模々々と叫せ給ふ。あと答へて、鳶のごとくの化鳥翔け來り、前に伏して詔をまつ。

HANA-BI:北野武の暴力

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映画作家としての北野武を、作家の赤坂真理は「『ほとんど暴力だけ』の作品を何作も続けて撮った」と言っているが、「HANA-BI」もやはり暴力の描写だけで成り立っている作品だ。この作品はヴェネチア映画祭で金獅子賞をとったくらいだから、世界的に評価されたわけだが、それは暴力の描き方が世界中の共感を呼んだからなのか。赤坂は、北野が描いた暴力を「時代に抑圧された身体性の叫び」と言っているが、そのような叫びが、北野が映画造りをしていた1990年代以降世界中に蔓延していたということなのか。

四季山水図(秋冬):蕪村の山水画

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(秋景山水図 絹本彩色 105.5×41.0cm)

四季山水図シリーズのうち秋景。これは、深山幽谷を描いている点では春景と共通するが、人物の描き方が、俳画的ではなく、文人画的である。渓谷に船を浮かべ、自然の眺めを楽しむという構図に、文人画の精神を感じる。このように自然の風雅をとくに強調するときには、人物のほかに、人の生活を感じさせるものを省くのが文人画の常道である。

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これは、前の絵に続いて、第七の嚢における光景を描いたもの。蛇がいっそうリアルに描かれている分だけ、亡霊たちの苦悩の深さが伝わって来る。

デンマークへの移民を希望して入国を試みたイラン人5人がデンマーク当局に身柄を拘束されたあげく、所持していた現金の一部(合計8万クローネ分)を没収されたそうだ。デンマークでは、移民が1万クローネ(約15万円相当)を超える現金を所持している場合には、限度を超える額を没収できるという法律が施行されたばかりで、これはその適用第一号ということらしい。

フェルメールの女性たち

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筆者の知人にフェルメールが好きな人がいて、フェルメールの作品を展示している美術館を求めて、世界中を飛び回っている。そんなことが可能なのは、フェルメールの作品数が少ないためもある。なにしろ今日まで残っている作品の数はわずか三十数点だ。美術館によっては数点の作品を保有しているところもあるし、都市単位にすれば精々十数都市に限られるので、その気になれば、そんなに時間をかけなくとも、満遍なく踏破することができる。

菅野完「日本会議の研究」

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安部晋三政権の登場とともに俄に脚光を浴びたものがある。日本会議と称する極右団体だ。いまや多数の国会議員が会員として名を連ね、安部晋三政権に大きな影響を及ぼしている。その活動ぶりは安部晋三政権の別働隊と言ってよい。ところがこの団体がどのような経緯で結成され、どのような思想的背景を持っているかについては、あまり知られていない。これほど大きな政治的影響力を持つに至った団体の中身が国民に知られていないのは異常だ。そんな問題意識をもって、この団体の研究に取り組んだ人がいる。フリー・ジャーナリストの菅野完だ。

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