柄谷行人「憲法の無意識」

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「憲法の無意識」は、昭和憲法や現代資本主義について柄谷なりに考えてきた事柄を文章にしたものをまとめたものだ。それゆえ一冊の本としてはまとまりがないという印象を受けるが、取り上げられている個々のテーマについては、それなりのインパクトを感じさせる。

表題にもなった「憲法の無意識」は、現行の日本国憲法つまり昭和憲法が、アメリカによって押し付けられたものだから日本人自らの手で書き換えねばならないとの根強い主張にかかわらずこれまで書き換えられてこなかった原因について、とりわけ問題の九条に即して、柄谷なりの回答を出そうとするものである。柄谷によれば、九条は今後半永久的に書き換えられることはないだろう。その理由は、この憲法を日本人は理屈によって受け入れたのではなく、したがって意識的に受け入れたのではなく、無意識のうちに受け入れたからだとする。その辺の心理学的な機制については、昨年「図書」に寄せた「反覆脅迫としての平和」と言う小論の中でも言及しており、それについては筆者もこのブログで紹介したことがある。それは、フロイトの無意識(超自我)の理論を援用して、日本人と憲法との関係を、無意識にもとづくものだとする説である。

人間は意識的になした行為については、これを意識的に改めることができる。しかし無意識からなした行為については、これを意識的にあらためることができないばかりか、そもそも自分でコントロールすることさえできない。日本人が昭和憲法、とくに九条を決して書き換えないのは、それが国民全体の無意識によって支えられているからだ。国民全体が無意識に束縛されている事態は、意識的に変えることはできない。それ故、昭和憲法の核心ともいえる9条の規定は、半永久的に残り続けるだろう。たとえ、解釈改憲等の手段を用いて、その実質が変容するようなことがあっても、条文自体は生き残ってゆくだろう。そう柄谷は断言するのである。

これは一見理屈の通った議論のように聞こえるが、よくよく考えれば、説明できないことを説明するのに、理屈ではなく屁理屈を以てするようなものだといえよう。理屈は無論意識の働きがなければ成立しない。だからと言って意識の働きによって成立しないものを、無意識の働きで成立させようとするのは、ある種の詭弁ではないか。柄谷の文章を読んでいると、どうもそんな気がしてくる。気がするというのは、理屈でそう納得したからではないからだ。理屈上の根拠はないが、そう言われればそのような気がしないでもない、といったようなところだ。

日本人が九条に拘り続けているのは、無意識どころか意識の働きによるものだと、筆者などは柄谷とは真逆に考えてしまう。先の大戦で日本人は深刻なダメージをこうむった。一部の支配層を除けば、日本国民のほとんどすべての層で、多かれ少なかれ程度の差はあるにしても、戦争の打撃をストレートにこうむった。それが強烈なイメージとして日本人の中に定着していたからこそ、日本人は戦争を思わせるようなものに拒否反応を示し続けてきたのではないか。そうした過去の記憶は、我々のような団塊の世代にも、親の口や背中を通じて伝わっている。だからそうした世代が国民の大多数を占めている間は、日本人は戦争に対してアレルギー反応を示し続ける。実際これまではそうだった、と考えるのが自然ではないのか。これを無意識の結果日本人は戦争を拒絶するようになったと考えては、だれがどんなことをしても九条は半永久的に変えることはできないということになってしまう。だからそんなに気にすることはないのだよ、ということになる。

これは一種の無責任というべきであろう。柄谷は日本人が昭和憲法を守ってきたのではなく、日本人が昭和憲法に守られてきたという言い方をするが、では今後も国民として昭和憲法を守る努力をしなくとも、そんなに深刻なことにはならないというのか。それはあまりにも能天気な考え方だと筆者などは思う。おそらく我々団塊の世代が表舞台から消える頃、日本人は戦争への最後の記憶から解放されて、ほかの国並みになるだろう、というのが筆者の予測だ。そうなったときに、憲法についてどう考えるのか、そこのところを、それこそ意識的に整理しておかなければ、流れに流されるようにして、安易に好戦的な国民に逆戻りしてしまう可能性が大きい、そういうべきではないのか。

この本はほかに、現代資本主義についての考察を含んでいるが、そちらはそちらでなかなか考えさせられるところがある。柄谷は憲法を論じるときは無意識を強調するのだが、資本主義を論じるときは明確な説明モデルを正面から掲げ、それにもとづいて論理的、つまり意識的に、議論を展開している。その部分については、あらためて別の形で触れたいと思う。





コメント(1)

壺斎様
 憲法成立したときは戦後の混乱状態のなかにあり、戦争はもう懲り懲りであり、戦争放棄の2章9条は国民にとって願ってもない宝物ように思えたに違いない。戦争のトラウマを癒すのに最高の憲法であった。心に傷を負った日本人は、この憲法を観音様のように思ったのではないか。世界に向けて、この憲法を大事に守っていきますのでお許しください、といえば許されてきた。いつしか日本人の無意識に浸潤したと考えるのももっともだと思う。今の自衛隊の現状をどう考えても違憲状態にあるのだけれども、2章9条を変えたくないという国民の心理が働いているのは現実だ。
 <日本人が昭和憲法、とくに九条を決して書き換えないのは、それが国民全体の無意識によって支えられているからだ>という柄谷氏の見解は、私は卓見だと思う。しかし、そうはいっても日本を取り巻く環境を考えれば、これでよいのだろうかと無意識ではなく、意識的にかつ冷静に分析して議論を深めなければいけないと思う。
 憲法改正という言葉を国民が聞くと、免疫システムが作動してアレルギーをおこすというところまで行っていなければ良いが・・・・
 2016/7/22 服部

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