本居宣長「直毘霊」

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「直毘霊(なほびのみたま)」は「古事記伝」の序に当たるものだが、古事記伝の刊行に先立って独立した著作として発表された。宣長自身が言っているように、道について論じたものである。表題の「直毘霊」とは「直毘神」の霊という意味であるが、直毘神は穢れを払い、禍を直す神とされているとおり、直毘神の霊を以てわが国に取り付いた穢れを祓い清め、わが国固有の道を明らかにしようとしたものである。ここで祓い清めるべき穢れとされているものは異国の悪しき影響であり、わが国固有の道とされているものは、皇祖神天照大神によって示された日本人として歩むべき尊い道のことを言う。したがってこの書は、激しい排外主義と神がかった国粋主義を煽ったものとして、日本の思想史上にきわめてユニークな位置を占めるものである。

宣長は三十歳代半ばに書いた「石上私淑言」においてすでに排外主義と国粋主義を主張していたが、四十二歳のときに著したこの書において、それらを体系的に展開してみせたのである。彼の排外主義的な攻撃の対象となるのは主として儒教であるが、これは当時の日本で儒教とくに朱子学が持っていた大きな権威を意識してのことだろう。なかでも荻生徂徠を祖とする蘐園学派は、いわゆる「聖人の道」論を展開して、世の中というものは、聖人の立てた基準に従って人為的に運営されるものだというような議論をしていた。それに対して宣長は厳しい批判を向けながら、わが国固有の道というものは、人為をはなれた自然のものであって、こざかしい理屈をこねまわすのをやめて、自然のままに生きるのが正しい生き方なのだと主張して見せたのである。

それゆえこの書の読みどころは二つある。一つは、儒教に象徴される異国=漢土(中国)の学問の批判であり、もう一つは、わが国固有の道とは何かという議論である。

宣長は漢土(中国)の学問を聖人論に代表させているが、これは徂徠らの蘐園学派を意識してのことである。徂徠は、聖人を人間の理想的な姿として示したのであるが、宣長は逆に聖人を悪人として示した。聖人が出現するわけは、世の中をよくしようとすることからではなく、世の中が乱れて腐敗しているからなのだ、と言うのである。乱れて腐敗している世の中を少しでもすみよくするために、ああでもないこうでもないと小ざかしい議論をするなかから多少頭のよいものが現れてそれが賢者だ聖人だともてはやされるだけのことである。そうした連中のなかで要領のよいものが国を乗っ取って皇帝を称する。こうした連中は、「道に背いて、君主を滅ぼし、国を奪った張本人なのだから、その道はみなごまかしにほかならないし、聖人も実はよい人であるどころか極悪の人間なのだ」(中公版日本の名著所収、西郷信綱による現代語訳)と言うわけである。

それに対してわが国は、もともとが人心おだやかで、こざかしいことを言わなくともよく治まっていた。それは皇祖神である天照大神が垂れた教えを歴代の天皇が守ってきたからであって、それらが守られている限り、わが国は自然と治まるようにできているのである。「何事でも、おおらかで用が足りることは、おおらかなままがいちばんよいのだ。それゆえわが国の古は、そうしたこうるさい教えもなにもなかったけれど、下が下まで乱れることなく、天下はおだやかに治まって、皇位は幾久しく伝わってきたのである」(同上)というわけである。

ところが、徂徠のようなやからが漢土の学問を崇拝し、なにかとこざかしい議論を弄するようになって、わが国固有の道が失われるようになったのは非常に嘆かわしいことだ、そう宣長は考えて、日本における異国かぶれたちを激しく非難するわけなのである。「こよなくめでたいわが国の道をさしおいて、他国のこざかしく口うるさい考えや、やりかたをよいこととして模倣したため、真直ぐで清かった心も行いも、みな汚く曲ってしまい、のちにはついに、あの異国のきびしい道でないと治まりにくいかのごとき次第となったのだ」(同上)

それゆえ肝心なことは、異国の道を排除してわが国固有の道を復活させることだ。この道は異国の道とは異なって人間の作為したものではない。神祖によって創始され、「天照大神が受け継ぎ、保ち、伝えた道である。それゆえ、神の道とはいうのである」。この神の道をわが国歴代の天皇が伝えてこられた。「恐れ多くも、天皇が天の下を治ろしめす道を・・・下なる者は、とにもかくにも、ただ上の命に従っているのが、道にかなったことなのである」(同上)

ところでこのわが国固有の道について宣長は、その中身を具体的には示していない。一例として宣長が言及しているのは婚姻についてである。所謂近親相姦の禁止について、最近のわが国は口うるさく言うようになったが、もともとはそうではなかった。たとえば兄弟姉妹同士の結婚について、わが国古代においては同母の兄弟姉妹間の結婚を嫌い、異母の兄弟姉妹の間の結婚は、天皇をはじめ世間一般のことであった。それが一様に禁じられるようになったのは、ほかならぬ漢土の影響によるものである。漢土が「このように厳しく定めたわけは、国の風俗が悪く、親子や同母兄弟などの間にも乱脈なことが絶えず、ものにけじめがなくて治まりがたかったためで、したがってこのように掟が厳しいのは、むしろ国の恥ではないか」(同上)というのである。

もう一例として宣長があげているのは神に対する接し方である。わが国には善神(直毘神など)のほかに悪神(禍津日神)もある。悪神だからといって遠ざけてはならぬ。「すべて神は、仏などというものとは趣を異にし、善神のみならず悪神もあり、心も仕業も善悪二筋なのだから、悪事をする人も栄え、善事をする人も禍にあうというようなことが、世にはざらにあるのだ。したがって神は、道理に合うか合わぬかでもって考慮さるべきものではなく、ただその怒りを恐れ、ひたすら斎き祭るべきものである」

どうも宣長からこんな風に呼びかけられると、こざかしいことあげはやめて、分別とは遠く離れた愚か者であれ、と説教されているような気がしてくる。







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