うずまき猫の見つけかた

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村上春樹のエッセー集「うずまき猫の見つけかた」は、村上がアメリカのケンブリッジという町(ハーヴァード大学のあるところ)に滞在していた1993年から1995年にかけての二年間の外国生活の記録ともいえるもので、本人の言うとおり、アメリカ滞在の最初の二年間をカバーしている「やがて哀しき外国語」の続編のようなものである。外国生活の記録であるから紀行文と言えなくもないが、普通の紀行文とは大分趣が違って身辺雑記のような印象も与える。中途半端といえば中途半端だが、ユニークと言えばユニークとも言える。

十六本のそれぞれ独立した文章からなり、それらの多くは表題にあるとおり猫を話題に取り上げている。村上は猫が好きだったようで、外国でも行く先々で猫と仲良くなっている。それは人間と猫との長い友情の歴史に支えられた関係なのかもしれぬが、やはり村上自身が猫好きだということを猫のほうでも理解していてくれること、また、猫は人間以上にコスモポリタンな生き物だということにも根ざしているのだろう。村上の言うことを信ずれば、アメリカの猫は外国語にも堪能で、村上の日本語もよく理解してくれるのだそうだ。

猫の話題は沢山出てくるのだが、表題にもなっている肝心な「うずまき猫」のことがどこにも出てこない。だから「うずまき猫」とは一体何ぞや、と意気込んでも、報われることはない。そのかわりに村上が読者サービスに持ち出しているのが寿司をめぐる面白い話だ。

村上は、この本の装丁を手がけてくれた安西水丸と寿司屋で寿司を食ったことがあったが、その折に寿司の食い方について、ひとしきりの論争を安西との間にかわした。話の流れの中で、おおかた意見の一致を見た二人にとって、一つだけ一致できないことがあった。それは寿司をしてからセックスをするのがよいか、或はセックスをしたあとで寿司を食うのがよいか、という微妙な事柄についてだった。村上はセックスをしたあとで寿司を食うのが好きだと言うのに対して、水丸は「そんなのいないよ・・・セックスしたあとで寿司食うなんて、そんな奴いないよ。村上君くらいだよ」と言って、嘲笑されたのだ。

筆者もやはり、セックスしたあとで寿司を食う気にはなれない。セックスしたあとはだいたいグウグウ寝てしまう。やり終わったあとで、わざわざベッドから起き上がって着替えをし、寿司屋に寿司を食いに出かけるなんて、想像もできない。ところが村上は、それを当たり前のこととして実践しているようなのだ。世の中には色々な人間がいるものである。

1994年の夏に中国の奥地とモンゴルを旅したことに触れた文章があるが、これは「辺境・近境」のなかで紹介されているノモンハン紀行と同じ旅のことなのだろうか。恐らくそうなのだろうと思うが、「辺境・近境」ではノモンハンの様子がかなり詳細に書かれているのに対して、ここではノモンハンのノの字も出てこない。その代わり、現地で食った料理がまずかった、ということばかり強調されて書かれている。まず中国の食い物。中国だから当然中国料理が出てくるわけだが、村上はどういうわけか中国料理が苦手で、喉も通らないのだという。その徹底振りは、ラーメンや餃子も受け付けないほどというから徹底している。いまどきラーメンを中国料理だなどと思っている日本人は殆どいないのではないか。それはともかく、筆者についていえば中華料理は大好物で、一ヶ月毎日中国料理ばかり食わされても飽きないと思う。中国料理に限らず、何でも出されたものをうまく食えるというのは、大事なことだ。人間としての生き方の幅がそれだけ広がるではないか。村上にとって残念なことである。

モンゴルでは羊の肉ばかり食わされたが、これにも辟易させられたそうだ。羊の肉は、筆者も食えないことはないが、あまりうまいとは思わない。だから毎日羊の肉ばかり出されたらがっかりするだろうと思う。それを村上の場合、もともと好きでないところに、毎日のようにそればかり出されたものだから、中国料理に劣らず辟易させられたそうだ。旅の醍醐味は現地の食い物で大部分が決まるわけだから、まずいものばかり出され、挙句には食ったふりをして吐き出すにいたっては、無残というほかはない。村上はそんなこともあって、中国とモンゴルには良い印象を持っていないようだ。

もうひとつ、印象に残った話題。映画館の中である映画を見ていたら、悪党が生意気な子どもに向かって fuck a duck と怒鳴りつける場面があった。その時にはアレと思ったが意味がよくわからなかった。そこで、さる辞書の権威に問い合わせたところ、最近のアメリカのスラングで、「失せろ」という意味だとわかった。文字通りには、「あひるをファックしろ」という意味だが、それがどういうわけか、「地獄へ行ってあひるとファックしてろ」というイメージになり、そこから「この世から消えうせろ」という意味に転じたらしい。それ以来村上は、忌々しい事態に巡り合うたびに、fuck a duck と叫びたくなる誘惑にかられたそうだ。

ところが、fuck the duck という言い方もあって、こちらは「仕事を適当にさぼる」という意味になる。不定冠詞の a が定冠詞の the に入れ替わっただけで、こんなに意味の相違が生じるわけだ。一匹のその辺にいるアヒルが、特定のアヒルに限定されると、意味にこんなずれが生じるのは英語の面白いところだといって、村上は妙に感心するのである(fuck the duck は、そこのそのあひると戯れて仕事をさぼる、というイメージらしい。そこのそのあひる、だからわざわざ地獄へ行くことはないわけだ)。






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