鴛鴦歌合戦:マキノ雅弘のミュージカル時代劇

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マキノ雅弘は、日本映画の父ともいわれる牧野省三の長男として、子供の頃から映画作りの現場を見てきた。父親の映画に子役として登場したこともある。だから、彼が映画作家になったのは、いわば家業を引き継ぐようなものであった。彼にとっての映画とは、芸術というよりも客商売のエンタテイメントであり、その使命はあくまでも観客を楽しませることにあると考えていた。彼の映画づくりが職人技に喩えられるのには、そんな背景がある。

父親の牧野省三は、三文歌舞伎をそのままスクリーンに映したような映画を多く作ったが、息子のマキノ雅弘は、時代劇を多く作った。昭和初期の日本の芝居といえば時代劇が圧倒的な人気を誇っていたし、映画もまたその例外ではなかったから、エンタテイメントとしては勢い時代劇を作ることに傾いたわけである。

マキノ雅弘の戦前の時代劇は、そのほとんどが消耗品のような扱いを受けて、いまに伝わるものは少ないが、そのなかで「鴛鴦歌合戦」は出色の作品だといえる。この映画をマキノは、1939年に作ったのだが、歌を中心にしたミュージカル映画として作った。その当時は浅草レビューの全盛時代で、音楽を取り込んだオペレッタのようなものが流行っていたのだが、マキノはそれを映画にも取り入れて、スクリーン版のオペレッタ、今で言うミュージカル映画を作ったのである。

日本の映画の歴史上、ミュージカル映画が盛んに作られたのは、たしか高度成長期で、その時にもミュージカルを時代劇に組み合わせたミュージカル時代劇がある程度流行ったのであるが、マキノのこの作品は、その先駆者と言ってもよい。

とにかく、半端なミュージカルではない。全編これ歌の氾濫といった観を呈している。出だしの部分からラストシーンまで、役者たちが入れ替わり立ち変わり歌いまくる。ブロードウェーやウェスト・エンドのミュージカルも色を失うほどの賑やかさだ。

その歌い手というのがまた面白い。歌舞伎上がりの名役者といわれた片岡千恵蔵と、後に渋い演技で鳴らすようになるあの志村喬が、美声を披露して歌いまくるのだ。これに当時の人気歌手ディック・ミネが加わる。この三人が、やはり三人の美女たちと絡み合いを演じながら歌声をリレーするというのがこの映画の趣向なのである。

ディック・ミネは本職の歌手であるから、歌がうまいのは当然だが、千恵蔵と志村はまったくの素人で、それまで公衆の面前で歌ったことなどなかったはずだ。それが、二人ともこなれた声で歌を歌い、観客をうならせたわけである。特に志村の場合は、役者をやらせておくのはもったいないので、歌手に商売替えしたほうがよいとまで言われた。これは映画史上の椿事のひとつと位置づけてもよいだろう。

多くのミュージカル映画がそうであるように、この映画にもそれなりの筋がないわけではないが、筋は二の次で、歌が売り物である。筋と言えば、千恵蔵演じる浪人と、同じく浪人たる志村の娘の恋を中心にして、それにディック・ミネ演じる馬鹿殿の横恋慕が絡み、更に知恵蔵をめぐって二人の女が割り込んで、複雑怪奇な人間模様が繰り広げられた挙句、本命のカップルたる知恵蔵と志村の娘がめでたく結ばれるというものである。

この映画ではしかし、知恵蔵の出番はそう多くはなく、志村とディック・ミネが、脇役にもかかわらず主役をしのぐ活躍ぶりを見せている。そのわけは、この映画の製作中に知恵蔵が体調を壊し、撮影する時間の余裕がなかったからだと言われる。なんでもマキノは、知恵蔵の出てくるシーンをまとめ取りして、それをあとで切り貼りしたそうだが、その撮影時間と言うのが、わずか二時間だったというから驚きだ。これは知恵蔵の出るシーンに限らず、全体についても言えることで、突貫工事のような速さで映画を作り上げたそうである。

こういうのは、マキノが映画を職人芸だと思っていたから生じたことであって、映画を芸術だと思っていたなら、そんなゾンザイなまねはできないだろう。





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