仏法僧(三):雨月物語

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 貴人又曰はく。絶て紹巴が説話を聞かず、召せとの給ふに、呼びつぐやうなりしが、我跪くまりし背の方より、大なる法師の、面うちひらめきて、目鼻あざやかなる人の、僧衣かいつくろひて座の未にまゐれり。貴人古語かれこれ問ひ弁へ給ふに、詳に答へたてまつるを、いといと感でさせ玉ふて、他に録とらせよとの給ふ。一人の武士かの法師に問ひていふ。此の山は大徳の啓き玉ふて、土石草木も靈なきはあらずと聞く。さるに玉川の流には毒あり。人飮む時は斃るが故に、大師のよませ玉ふ哥とて
   わすれても汲みやしつらん旅人の高野の奧の玉川の水
といふことを聞き傳へたり。大徳のさすがに、此の毒ある流をば、など涸せては果し給はぬや。いぶかしき事を足下にはいかに弁へ玉ふ。

 法師笑をふくみていふは、此の哥は風雅集に撰み入れ給ふ。其の端詞に、高野の東の院へまゐる道に、玉川といふ河の水上に毒虫おほかりければ、此の流を飮むまじきよしをしめしおきて後よみ侍りけるとことわらせ給へば、足下のおぼえ玉ふ如くなり。されど今の御疑ひ僻言ならぬは、大師は神通自在にして隱神を役して道なきをひらき、巖を鐫るには土を穿つよりも易く、大蛇を禁しめ、化烏を奉仕しめ給ふ事、天が下の人の仰ぎたてまつる功なるを思ふには、此の哥の端の詞ぞまことしからね。もとより此の玉河てふ川は國々にありて、いづれをよめる歌も其の流のきよきを譽しなるを思へば、こゝの玉川も毒ある流にはあらで、哥の意も、かばかり名に負ふ河の此の山にあるを、こゝに詣づる人は忘る忘るも、流れの清きに愛でて手に掬びつらんとよませ玉ふにやあらんを、後の人の毒ありといふ狂言より、此の端詞はつくりなせしものかとも思はるゝなり。

 又深く疑ふときには、此の歌の調今の京の初めの口風にもあらず。おほよそ此の國の古語に、玉蘰・玉簾・珠衣の類は、形をほめ清きを賞むる語なるから、清水をも玉水・玉の井・玉河ともほむるなり。毒ある流れをなど玉てふ語は冠らしめん。強に佛をたふとむ人の、歌の意に細妙しからぬは、これほどの訛は幾らをもしいづるなり。足下は歌よむ人にもおはせで、此の歌の意異しみ給ふは用意ある事こそと篤く感でにける。貴人をはじめ人々も此のことわりを頻りに感でさせ結ふ。


(現代語訳)
貴人がまた、「久しく紹巴の話を聞いておらぬ、呼べ」と言うと、誰かが呼んでいる様子だったが、親子のうずくまっていた背後から、大柄で、平たい顔つきの、目鼻の派手な法師が、僧衣をつくろいながら末席に座った。貴人があれこれ問いかけると、それに詳しく答えている。貴人はいよいよ気に入って、それに褒美をとらせ、と命じられる。一人の武士がこの法師に尋ねて言う。「この山は弘法大師の開かれたところで、土石草木も霊のないものはないと聞きます、それなのに玉川の水には毒があり、人がそれを飲むと倒れると言って、大師が
  わすれても汲みやしつらん旅人の高野の奧の玉川の水
と歌ったと伝え聞きます。大師のような方が、この毒のある流れをどうして枯らしてしまわなかったのか、いぶかしいことだが、あなたはどう思われますか」。

法師は微笑しながら言った。「この歌は風雅集に選ばれております。その詞書きに、『高野の東の院の参道に、玉川という川があるが、その水上に毒虫が多いので、この流れを飲むまじきことを示し置き、その後に読んだ』とありますことから、おっしゃるようなことになったわけです。あなたのご意見は間違っていないと思われます。というのも、大師は神通自在にして土地の神を動かして道なきところに道を開き、岩を崩すのは土を掘るよりも易く、大蛇をいましめ、化烏を奉仕させること、天下の人が皆仰ぎたてまつるところですから、それを思うと、この歌の詞書きは本当らしくありません。もともとこの玉川という名の川は国々にあって、いづれを読んだ歌もその流れの清らかなるを読んでいることを思えば、ここの玉川も毒のある川ではなくて、歌の意味も、これほど名にし負う川がこの山にあることを参詣の人々が忘れてしまって、もともと流れの清いことを愛でて手に掬い飲んだと歌ったであろうものを、後の世の人が毒があるとのマガゴトを言い出したことから、こんな詞書きが付けられたと思われます。

「もっと深く疑えば、この歌の調べは(大師の生きた)平安時代初期のものではありません。およそわが国の古語では、玉蘰・玉簾・珠衣といった言葉はどれも形を褒め清らかさを湛える言葉ですので、清水のことも玉水・玉の井・玉河を褒めていうのです。毒のある川を玉川などとは言いません。むやみに仏を尊び、歌の意味をわきまえぬ人が、こんな誤りをおかすのです。あなたは歌を読む人でもないのに、この歌の意味について疑われるのは、普段からのたしなみの賜物と察します」そう言って法師は深く感心した。貴人はじめほかの人々も、このことをしきりに感心したのだった。


(解説)
貴人が紹巴という僧侶を呼ぶと、その僧侶が高野山に流れる玉川をめぐって、面白い話を始める。その玉川を歌った歌に、毒があるとはどういうことか、そうした疑問を呈した武士に対して、歌の意味を語り聞かせるのである。

紹巴とは里村紹巴のこと。安土桃山時代に活躍した連歌師で、秀次から愛されたが、秀次の失脚後は蟄居を命じられただけで、命を奪われることはなかった。

秋成は、亡霊を登場させるだけではなく、その亡霊たちに風流を論じさせることで、話に色を添えているわけである。






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