吉備津の釜(二):雨月物語

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 香央の女子磯良かしこに徃きてより、夙に起き、おそく臥して、常に舅姑の傍を去らず、夫が性をはかりて、心を尽して仕へければ、井沢夫婦は孝節を感でたしとて歡びに耐へねば、正太郎も其の志に愛でてむつまじくかたらひけり。されどおのがまゝのたはけたる性はいかにせん。いつの比より鞆の津の袖といふ妓女にふかくなじみて、遂に贖ひ出し、ちかき里に別莊をしつらひ、かしこに日をかさねて家にかへらず。磯良これを怨みて、或は舅姑の忿りに托せて諌め、或ひは徒なる心をうらみかこてども、大虚にのみ聞きなして、後は月をわたりてかへり來らず。父は磯良が切なる行止を見るに忍びず。正太郎を責めて押し篭ける。

 磯良これを悲しがりて、朝夕の奴も殊に実やかに、かつ袖が方へも私に物を餉りて、信のかぎりをつくしける。一日父が宿にあらぬ間に、正太郎磯良をかたらひていふ。御許の信ある程を見て、今はおのれが身の罪をくゆるばかりなり。かの女をも古郷に送りてのち、父の面を和め奉らん。渠は播磨の印南野の者なるが、親もなき身の淺ましくてあるを、いとかなしく思ひて憐れをもかけつるなり。我に捨てられなば、はた船泊りの妓女となるべし。おなじ淺ましき奴なりとも、京は人の情もありと聞けば、渠をば京に送りやりて、榮ある人に仕へさせたく思ふなり。我かくてあれば万に貧しかりぬべし。路の代身にまとふ物も誰がかりことしててあたへん。御許此の事をよくして渠を惠み給へと、ねんごろにあつらへけるを、磯良いともうれしく、此の事安くおぼし玉へとて、私におのが衣服調度を金に貿へ、猶香央の母が許へも僞りて金を乞ひ、正大郎に与へける。此の金を得て密に家を脱れ出、袖なるものを倶して、京の方へ逃げのぼりける。

 かくまでたばかられしかば。今はひたすらにうらみ歎きて、遂に重き病に臥しにけり。井沢香央の人々彼を惡み此を哀みて、専醫の験をもとむれども、粥さへ日々にすたりて、よろづにたのみなくぞ見えにけり。

 こゝに播磨の國印南郡荒井の里に、彦六といふ男あり。渠は袖とちかき從弟の因あれば、先づこれを訪らふて、しばらく足を休めける。彦六正太郎にむかひて、京なりとて人ごとにたのもしくもあらじ。こゝに駐られよ。一飯をわけて、ともに過活のはかりことあらんと、たのみある詞に心おちゐて、こゝに住むべきに定めける。彦六我が住むとなりなる破屋をかりて住ましめ、友得たりとて怡びけり。

 しかるに袖、風のこゝちといひしが、何となく腦み出て、鬼化のやうに狂はしげなれば、こゝに來りて幾日もあらず、此の禍に係る悲しさに、みづからも食さへわすれて抱き扶くれども、只音をのみ泣きて、胸窮り堪へがたげに、さむれば常にかはるともなし。窮鬼といふものにや。古郷に捨し人のもしやと獨りむね苦し。彦六これを諌めて、いかでさる事のあらん。疫といふものゝ腦ましきはあまた見來りぬ。熱き心少しさめたらんには、夢わすれたるやうなるべしと、やすげにいふぞたのみなる。看々露ばかりのしるしもなく、七日にして空しくなりぬ。天を仰ぎ、地を敲きて哭き悲しみ、ともにもと物狂はしきを、さまざまといひ和さめて、かくてはとて遂に曠野の烟となしはてぬ。骨をひろひ塚を築きて塔婆を營み、僧を迎へて菩提のことねんごろに吊らひける。


(現代語訳)
香央の娘の磯良は夫の家に入って以来、朝早く起きて夜遅く寝、常に舅姑のそばを離れず、夫の性格を推し量って、心を尽くして仕えたので、井沢夫婦はその孝行ぶりに感心して喜びに耐えず、正太郎もそれを評価してむつまじく語らいあった。だがわがままで愚かな性格はどうにもならない。何時頃からか鞆の津の袖という妓女に深く馴染んで、ついに身請けをし、近くの里に別荘を作って、そこに通い詰めて家に帰らなかった。磯良はこれを恨み、舅の怒りにまかせて諌めてもらったり、夫の不誠実を嘆いて見せたが、正太郎はうわの空に聞き流して、その後は何ヶ月も家に戻らなかった。父は磯良の不幸な様子を見るに忍びず、正太郎を責めて監禁してしまった。

磯良はこれを悲しく思い、朝夕の勤めもこまやかに、また袖へもひそかに物を贈り、信の限りを尽くした。ある日、父が不在のときに、正太郎は磯良にこう語りかけた。「おまえの誠実なのを見て、今は自分の身の罪を悔いるばかりだ。あの女を故郷に送り届け、父の不機嫌をなだめてさしあげよう。あの女は播磨の印南野の者だが、親もないあさましい身なのを、かわいそうに思って憐れんだのだ。俺に捨てられたら、また船泊りの妓女となるほかないだろう。同じように浅ましい稼業でも、京の人は情があるというから、あの女を京に送ってやって、金持ちにでも仕えさせようと思う。俺がこんな状態だから、あの女はなにかと不自由だろう。路銀も身にまとうものも誰もくれはしないだろう。お前もこのことをよく考えてあの女にめぐってやってほしい」。こうねんごろに言い含められて、磯良はたいそううれしく思い、ご安心なされませ、と言って、ひそかに自分の着物類を金に替え、そのうえ母親をだまして金を無心し、正太郎に与えた。正太郎はこの金を持って、袖を伴い、京のほうへ逃げ上った。

磯良はこんな具合にだまされたので、今はただひたすら恨み嘆き、遂に重い病に伏した。井沢・香央両家の人々は正太郎を憎み磯良を憐れんで、医者に治療を求めたが、粥さえ日々に喉を通らなくなり、まったく施しようもなく見えた。

播磨の国印南郡荒井の里に、彦六という男があった。この男は袖と近い従弟の関係だったので、まずこれを訪ねて、しばらくその厄介になった。彦六は正太郎に向かって、「京といっても誰もが頼もしいわけではない。ここに滞在しなよ。互いに分け合って、一緒に暮らそう」という言葉を力強く思い、ここに住むことにしたのだった。彦六は隣の破れ屋を借りて正太郎らに住まわせ、友ができたといって喜んだ。

ところが、袖は風邪気味だといって、なんとなく苦しみ出し、物の怪がついたように狂わしくなった。ここへ来て何日もたたぬうちにこの禍にかかった悲しさに、正太郎は自分でも食を忘れて介抱したが、袖はただ泣くばかりで、胸がふさがって耐え難い様子。だが熱がさめればもとに戻った。これは鬼の仕業だろうか、それとも故郷に捨ててきた妻の恨みだろうか、と正太郎は一人で胸を痛めた。彦六はそれを諌めて、「どうしてそんなことがあるものか。疫病の苦しみは沢山見てきたが、熱がすこしさめれば、苦しさは夢のように忘れてしまう」と言うので、正太郎はそれを頼りに思ったが、袖は見る見るうちに悪くなり、七日で死んでしまった。正太郎は天を仰ぎ、地を叩いて嘆き悲しみ、自分も一緒に死んでしまいたいと騒いだが、それをさまざまに言い慰めて、遺体をこのままにしておけぬと、遂に野辺の煙となした。骨を拾い、塚を築いて、塔婆を営み、僧を迎えてねんごろに弔った。


(解説)
ここでやっと若妻の名が磯良だと始めて明かされる。物語がかなり進んでから主人公の名を明かすところは、「白峰」と同じである。この磯良という名前には、物語の進行を暗示させるような意味が含まれているとする解釈があるが、ここではそこまでは立ち入らないでおこう。

ともあれ磯良は貞淑で申し分のない女性として描かれている。その貞淑な妻を裏切って、夫の正太郎は鞆の浦の遊女に現をぬかし、挙句は磯良をだまして、二人で逐電してしまう。だまされたと知った磯良は、怒りのあまりにもだえ死んで、復讐の鬼と化すわけである。彼女を復讐に駆り立てたのは、嫉妬であった秋成は言う。この物語が、女の嫉妬の度し難さへの言及から始まっているのは、磯良の復讐に対するひとつの解釈だろう。

磯良の怨念のすさまじさは、正太郎の愛した遊技袖が呪い殺されたというところにも現れている。






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