小島の春:豊田四郎

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豊田四郎が1940年に作った映画「小島の春」は、ハンセン病患者の隔離をテーマにしたものだ。瀬戸内海の長島にあるハンセン病隔離施設の医官をしていた小川正子が、前々年の秋に出版した手記をもとにしている。この手記は、小川が医官としての立場から各地のハンセン病患者を施設に隔離する経緯を記録したもので、刊行されるや大きな反響をよんだ。その反響に答える形で、一年ちょっと後に映画化された。

ハンセン病と言えば、患者を隔離してきたことが非人間的だったとして、先日は最高裁判所までが謝罪したほどの、日本にとっては重いテーマだった。その背景には、ハンセン病についての無知があったわけで、つい最近まで、ハンセン病は恐ろしい病気である上に、伝染する確立が高いから、患者を社会から隔離して、施設に収容すべきだという考えが行き渡っていた。戦後もしばらくそういう状況が続いていたわけであるから、この映画が作られた1940年頃には、ハンセン病患者に対する無理解と偏見は相当なものだったわけだ。

だから、小川正子の原作及びこの映画のスタンスが、ハンセン病患者に対する偏見から逃れていないのはやむをえないことなのかもしれない。今日の眼から見れば、この映画は偏見に満ちており、患者の人権に対する配慮が足りないというふうに映るが、しかしそれは我々現在の人間にハンセン病についての認識が広がった結果なのであって、1940年頃の人々にそれを投影するのはフェアでないだろう。

それにしてもこの映画は、単に偏見から自由でないというにとどまらず、偏見を助長するような面を持っていることも否めない。ハンセン病が恐ろしい病気であるというにとどまらず、強い感染力を持っているから、家族をはじめ周りのものまで悪影響をこうむる。だから彼らを施設に隔離することは、彼らの治療ということ以上に、社会の防衛の為にも必要なのだ。そういう考え方が強く伝わってくる。ハンセン病患者を隔離することは、社会防衛のために必要な正義の行為なのであって、ハンセン病患者本人はもとより、その家族も患者の隔離に協力しなければならないのである。

映画の中では、夏川静江演じる医官が、瀬戸内海の島々や土佐の田舎をまわって、ハンセン病患者の発掘や施設への収容、残された家族との接触などを行っている。残された家族に会うのは、その子どもたちがハンセン病を発症していないかどうか確認するためである。あらたに発掘したハンセン病患者は、すみやかに自分の勤務先に収容するのが彼女の仕事だ。彼女はその仕事に強い使命感を持っている。その使命感がかえって、患者の人間性の抑圧につながるのが、映画を見ているものとしてつらいところだ。

医官は、ハンセン病を発病している一人の男を施設に収容することに全力を挙げる。できれば男が自発的に入所してくれるのがよいが、男には大勢の子どもたちをはじめ、養わねばならない家族がいる。そこで医官は村役場の力をかり、家族の面倒は村をあげて見るから心置きなく入所しなさいと説得してもらう。この説得のシーンがこの映画の最大の見せ場だ。

逡巡する男に向かって村長が必死に説得する。できれば男に自発的に入所してもらいたいのだ。しかしどうしても拒むなら、警察の手を借りなければならなくなる。そんなおどしともいえる言葉を使って村長は男を説得する。その場面を横で見ている医官の目付きは、まるで獲物を見据える猛禽類の目のようだ。男の気が緩むと見た村長は、だまされたと思って行ってこい、という。めちゃくちゃと言うほかはないが、それは今日的な視点から言えることであって、当時はこの男に他の選択肢はなかったわけである。

いよいよ男が船に乗せられて収容先に出発する段になると、島中の人々が桟橋に集まってきて、そのさまを見送る。彼ら、彼女ら、島人たちの表情は、厄介払いができたことを喜んでいる。悲しんでいるのは男の家族たちだ。何人かいる娘たちは桟橋から身を乗り出して父親に呼びかける、小学生の男の子は、磯伝いに走り回って、岸から離れてゆく船をいつまでも見送り続ける。この場面がこの映画のなかで唯一人間性を感じさせる。その人間性が悲しみに包まれているのは、やりきれないことではあるが。

医官が土佐の田舎に患者の家族を訪ねる場面も印象的だ。その家に行って見ると、小さな女の子(中村メイ子)が一人で留守番をしている。医官はその子を裸にして全身くまなく診察する。そして子どもにハンセン病の症状が見られないことを確認すると、安心して子どもを抱きしめる。そのことで映画は、この医官が心底の使命感から自分の職務に励んでいるのだというメッセージを伝えたかったのだろう。そうすることで、ハンセン病についての国の政策に、微力ながらお役に立ちたい、というわけなのだろうか。






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