自分の父親の精子から生まれた子は自分にとって何ものか

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読売のウェブサイトの記事(9月17日発)によれば、過去20年間で夫の実父から精子の提供を受けた夫婦114組から、対外受精で173人の子どもが誕生していたそうだ。これらの子どもたちは、法的には夫の子とみなされるのだと思うが、生物学的にはそうではないわけで、まして道徳的にどう受け取るべきかは別の問題だ。

この記事を読んで筆者の頭に浮かんだのは、鳥羽天皇にかかわる逸話だ。鳥羽天皇は、中宮の璋子(のちの待賢門院)から生まれた子(崇徳天皇)を叔父子といって疎んじたというが、それは自分の祖父である白河上皇が璋子に孕ませた子だということを知っていたからだと言われる。つまり鳥羽天皇にとって息子の崇徳天皇は、実は祖父の子であるから、自分にとっては叔父にあたるわけなのだ。このことが遠い原因となって、保元の乱が起ったと言われている。

こういう男女関係は、昔の日本にはよくあったことで、それ自体は珍しいことではないが、鳥羽天皇の場合を含めて、表向きはそんなことはなかったことにされていたことでもわかるように、決して褒められたこととは考えられていなかった。ところが読売が紹介する上述のような事態は、正々堂々と行われているわけで、そのことに筆者など古い頭の持ち主は聊かの違和感を抱いてしまう。

鳥羽天皇に倣うとしたら、自分の実の父親の精子から生まれた子どもたちを、その子の形式上の父親たちはどう呼ぶべきだろうか。実の父親の子だから、自分にとっては弟妹にあたるわけで、その意味では腹違いの弟妹と言うべきなのだろう。その腹がたまたま自分の妻の腹であったわけだ。





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