恋文:フェルメールの女性たち

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「恋文」も、「女主人と召使」同様、女主人と彼女のもとに手紙をもたらした召使をモチーフにしている。「女主人」のほうは、テーブルを前にして手紙を書いている途中の女主人のもとに、召使が届いたばかりの手紙、おそらく恋文を手渡そうとしているところを描いているが、こちらは暖炉のそばに腰掛けてマンドリンを弾いている最中の女主人に、召使が手紙を手渡した瞬間を描いている。

だが、同じようなモチーフを描いたこの二つの絵には、それにも増して重要な相違がある。まず、構図。「女主人」のほうは、漆黒の背景から浮かび上がった二人の姿をクローズアップさせており、非常に単純な構図になっている。それに対して「恋文」のほうは、手前の暗い部屋から、その向こうの明るい部屋にいる二人を描いており、構図的には非常に複雑になっている。フェルメールの絵は、前期には単純な構図の絵が多く、晩年に近づくにつれ次第に複雑になっていくが、この絵はその境界に位置づけられる。

手前の暗い部屋から、その向こう側の明るい部屋を望むこの構図には、先例がある。1668年の年期があるデ・ホーホの「男と女と鸚鵡」や、それ以前に描かれたと考えられるファン・ホーストラーテンの「スリッパ」である。フェルメールはこれらに影響されてこの絵を描いたのではないかと推測するものもおり(小林頼子)、それが正しいとすれば、1668年より後の作品ということになり、フェルメールにとっては前期から後期への過渡期の作品だとする推測の根拠となる。

手前の暗い部屋は、暗いなりにさまざまなものがごちゃごちゃと置かれており、その向こうの明るい部屋にも、暖炉や壁の絵だけでも十分なところに、洗濯物を入れた籠とか、箒とかスリッパなどが無造作に置かれている。これらは家事に関係するものだから、女主人が家事を怠けて楽器の演奏に耽っていたとも解釈できるし、あるいは召使が家事を中断して手紙をとりに行き、それを今女主人に手渡したのだと解釈することもできる。いずれにしても、この絵には過剰なメッセージが読み取れる。

手前の部屋と向こう側の部屋との対比が、それ自体明暗のコントラストをなしているのに加え、明るい部分にも、光を反射する形で強い明暗のコントラストが生まれている。

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これは女主人の顔の部分を拡大したもの。顔を召使のほうへ向けて、なにやら気まずそうな表情に見える。音楽を演奏しながら浮かれ気分でいるところを、恋文が届いたので、召使の手前決まりが悪くなったのだろう。彼女が着ている、白いフリルのついた黄色い上着は、フェルメールの絵におなじみの小道具である。(カンヴァスに油彩 44×38.5cm アムステルダム、国立美術館)






コメント(1)

壺斎様
 絵は作者のもとを離れると、勝手に歩き始める。鑑賞者の想像力に委ねられる。
 「女主人と召使」は、漆黒の闇に光を当てると、女主人と召使の存在が浮かびあがる。光が実在を明らかにした。実在したものは美しくあって欲しい。光があたった上着の黄色が美しい。そしてそれよりも美しい女性の顔、肌がある。その女性に、悩みが顔の表情に現れた。物語を作ってみたいと見る者に思わせた。
 「恋文」も黄色の上着と濃い黄色のスカートだ。フェルメールの黄色は何故か心に残る。
 何年か前の晩秋、教会の近くの公園の銀杏を思い出す。銀杏の木をみあげると真っ青の空に光を受けた銀杏の葉が輝いて見えた。空の青と黄色が対立してみえたが、緩やかな風が銀杏の葉を揺らすと、色彩のハーモニーが生まれた。銀杏の葉の黄色が陽の光に美しく輝いていた、あの黄色がフェルメールの黄色と重なった。
 2016/9/20 服部

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