安藤昌益の仇討批判

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ハーバート・ノーマンの安藤昌益論(「忘れられた思想家 安藤昌益のこと」大窪愿二編訳)を読んでいたら、昌益が仇討制度に厳しい批判を加えている部分に出会った。仇討というのは古い歴史を持ち、日本人の生き方の根幹にかかわるようなもので、簡単に批判しておさまるという性質のものではないが、昌益はその仇討の、制度としての側面に注目してこれを批判したようである。徳川時代の仇討は、人間の自然の感情から行われたというよりも、社会制度の根幹をなすものとして、それ故道徳的な要請として、人々に外部から強制される側面をもっていた。昌益が批判したのは、そうした強制を伴った制度としての仇討だった、ということがノーマンの文章からは、かすかながら、伝わってきた。

徳川封建時代には、仇討は、「親の仇は倶に天を戴かず」という儒教の戒律によって神聖化され、武士階級の厳しく守らねばならぬ掟になっていた。親や主君が殺された場合には、どんな事情があっても、その仇を討つことが求められた。だから仇討をすべき立場にいてそれを行わないものは、侮蔑された。要するに、仇討は封建道徳のかなめとして、人々(とりわけ武士)に強制されていたわけである。それに対して昌益は厳しい批判を行った。その理由は、際限ない闘争と激しい敵意を生じ、ついには自然な社会関係を打ちこわしてしまうからというものだった。

「昌益の眼からすれば、武士階級は、他人のおかげで超え太っているくせに有用な勤労は全くできず、他人を傲然と見下している。うぬぼれに膨れ上がった寄生者にほかならなかった」。その彼らが、主君や親の仇を討つといって、果てしのない殺し合いをするのは、全く自然に反している。自然は本来、人間同士の殺し合いなどを求めないものなのだ。そう昌益が考えるのは、自然は本来平和を求めるものだとの信念があるからだ。それ故昌益は、平和の愛好と一切の暴力および社会闘争の嫌悪とを宣言した、そうノーマンは言って、昌益の仇討批判は、平和主義的な信念から来ていると解釈している。

昌益がこう考えるわけは、人間というものは本来平和な生き物なのだから、その本然にしたがった生き方をしていれば、他人を殺すなどという馬鹿なことをするはずはなく、したがって仇討の意味もなくなる。そうならないのは、殺すほうは無論殺されるほうにも理由があるからで、人は殺すべくして人を殺し、殺されるべくして殺されたのだ、という覚めた見方をしていたからだと思う。だから、仇討は社会の腐敗を示すバロメータだということになる。昌益によれば、仇討を奨励するよりは、仇討を不要にするような平和な社会を作るのが肝心だということになるわけである。

だが、どんな社会でも殺人は起るのだという前提に立てば、殺された人の家族と殺したものとの間にどう釣り合いをとるのか、という問題は避けられない。つまり仇討を駆り立てるような事情があるにかかわらず、仇討を避けて通るのは、現実から眼を背けることだ、ということになる。徳川封建社会では、仇討を制度化することによって、殺したものと殺されたものの家族との間の釣り合いを測ったのだと言えなくもない。

明治政府は、国民に仇討を厳しく禁止した。それによって仇討する権利を奪うとともに、仇討する義務から国民を解放したわけでもある。解放されたと思った人は喜んだかも知れぬが、権利を剥奪されたと思った人は怒っただろう。その怒りをなだめる為に、日本の近代政府は、殺された人の家族に代わって国が殺したものを裁き、家族の恨みをはらしてやる、という言い方をしてきた。こういう言い方の前では、政府が犯罪者を処罰するのは、犯罪被害者の付託に応えたということになる。だから政府が犯罪者を適正に処罰できなければ、それは犯罪被害者の付託を裏切ったことを意味する。政府が犯罪被害者に代って犯罪者を処罰しないのであれば、犯罪被害者が自分で仇討の権利を行使するようにすべきだ、そんなふうに議論が流れていくのは避けがたいように思われる。

昌益の仇討批判をきっかけに、筆者がこのように考えをめぐらしたのはほかでもない。死刑制度の廃止をめぐって、日弁連が廃止すべきとの声明を出したり、それについて瀬戸内寂聴尼が廃止を支持する書簡を寄せたところ、犯罪被害者の気持を踏みにじるものだと反発の声が上がったり、要するに死刑制度のあり方が社会の大きな関心を引いているからだ。

日本の死刑廃止論者は、いまや死刑廃止が世界の主な流れだというが、そんな理由で日本の死刑制度の是非は論じられないだろう。他の国もそうだから、わが国もそうすべきだ、とはならない。まして死刑制度は国民の法意識の中核にかかわる事柄だ。国民の心中から内在的な思想が熟してきて、それが死刑廃止の方向を向いているなら、廃止の議論をするのもよかろう。ただやみくもに廃止ありきの議論をしても始まらない。

こんなことを言うのも、今の日本ではまだまだ、人殺しをした報いには、自分の命で償わせるべきだという信念が強くあるからである。






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