故郷:山田洋次

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「故郷」は、「家族」同様家族の絆を描いた作品だ。「家族」では故郷を捨てて北海道に新天地を求めに行く家族の姿が描かれていたが、この作品では一家が故郷を捨てるまでの過程が描かれている。

この一家が故郷を捨てるのは、自ら望んでのことではない。やむを得ずそう迫られたのであり、その原因は時代の流れというふうなメッセージが伝わってくる。この一家は、瀬戸内海の呉の先に浮かんでいる倉橋島という島に先祖代々住み着き、今の代は小さな木造船で砂利の運搬をしている。ところが、小さな船での砂利の運搬は時代遅れとなり、この一家の生活は楽ではない。そこへもってきて船の具合が悪くなる。修理するには莫大な金がかかるし、買い換えるのはもっと大変だ。そんな事情に直面して、一家の主は船をあきらめ、陸で仕事を見つける決断をする、というのが大方の筋書きだ。

「家族」同様、井川比佐志と倍賞千恵子が夫婦を演じ、笠智衆が祖父を演じる。倍賞千恵子が演じる妻の名は、「家族」の妻と同じ民子という名前だ。この民子が夫を助けながら、船で砂利を運ぶ仕事をする。この船は石船といって、砂利の運搬専用に作られている。平らな甲板を広く取り、そこに砂利を詰め込み、目的地に着くと、船を傾けて砂利を放出する。海のダンプカーといったイメージだ。この砂利が運ばれる先は、宇品港の埋立用地の海面ということになっている。夫婦は毎日、瀬戸内海のどこかにある砂利の積み出し港と宇品の埋立地の間を往復するのである。

小さな、しかも木造の船体で、重量のある砂利を運ぶわけであるから、船の寿命は短いうえに、しょっちゅう修理する必要が生じる。しかし運賃が安い為に、船の減価償却の費用まではまかなえない。そんなわけで、仲間たちのほとんどは、船の寿命が尽きるのを潮時に、他の仕事に鞍替えするのである。

船乗りの仕事に誇りをもっている井川は、なかなか船への愛着を捨てきれない。しかし、船を買い換える余裕はないし、仮に新しい船を買っても、それで未来が開けるというものでもない。借金で首が回らなくなるのがおちだ。そんなわけで井川は、思い切って別の仕事を見つけ、故郷を捨てる決断をするのである。

一家が住んでいる倉橋島は、今では本土の呉市街と橋で結ばれているが、この当時(1972年)は船で本土にわたった。その船に乗って、行商人の渥美清が、鮮魚や食料品を売りに来る。一方夫婦はそれに乗って本土にわたり、尾道の造船工場に就職の相談をしに行く。夫の井川が相談している間、妻の倍賞は不安な顔つきで待っている。その表情がなんともいえず悲しい。妻は、夫が新しい生活へ向かって決断したのを頼もしく思う一方で、船に対する夫の思い入れも十分にわかるので、なんとなく悲しい顔つきになってしまうのだ。

仕事を変える決断をした後、夫婦は最後の仕事をする。砂利の積み出し港で砂利を積め込み、それを宇品の埋立地に運んでいって、船を傾けながら海中に放出する。その場面がゆっくりと時間をかけて映し出される。夫の顔にも、妻の顔にも、それまでの生活への思いがよみがえってきて、どちらも悲しい表情を呈する。夫のほうは、「大きな時代の流れとはどういうもんかの、なんでわしはいままでどおりにやれんのかの」、といって、最後には子どものように泣き出す。それを妻が、母親のような慈愛に満ちた目で見つめる。その母親のような慈しみ深い倍賞の顔を見ると、これこそ日本の女の鑑だと、改めて思ってしまう。

こんな具合に、この映画はかなり感傷的なところがある。「家族」も感傷的だったが、この映画はそれに輪をかけて感傷的だ。夫婦だけではなく、祖父の笠智衆も孫に向かって感傷的な話を言って聞かせるし、渥美清演じる行商人も、船乗りが船を下りることを感傷的な目で見ている。井川が渥美に向かって、もうやめようと思うとるんじゃ、とうちあけると、いかにも残念そうな顔つきで、船長はやっぱり船長じゃ、と言う。感傷のオンパレードと言ってもよい。その分、映画としてはそれなりに輝いているところはある。

映画の中では、夫婦の船は昭和28年に作られて今年で19年目になると言われているから、まさに同時代の出来事として言われているわけである。昭和47年ごろは、高度成長の真っ最中で、海面を埋め立てて工場コンビナートを作るというプロジェクトが日本中あちこちにあった。そんな勢いのある時代だから、木造の小さな船が時代の流れから取り残されるのは、ある意味必然のことであったわけだ。

木造船の大工は、日本古来の伝統的な産業で、日本中に小さな造船所があった。隅田川にも、白髭橋の近くにそうした造船所がいくつかあったものだが、それらはもはや存在しない。これもやはり時代の流れに流されて消えていったわけである。






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