湯島元聖堂、神田神社暁:小林清親の東京名所図

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(湯島元聖堂 明治十二年)

湯島聖堂は、五大将軍綱吉が孔子廟として作ったもので、後に徳川幕府の学問・研究の拠点となった。孔子廟が学問の拠点となったのは、徳川時代には儒学が学問の中心であり、儒学の聖人を祭っている湯島聖堂が学校を兼ねるのが自然だったためだ。

明治時代になると、洋学が普及し、儒学をはじめとする漢学がすたれたので、学問・教育機関としての湯島聖堂もその役割を終えた。この版画の題にわざわざ「元聖堂」とあるのは、ここが時代遅れになったことの象徴的な表現だったわけである。

この図柄は、御茶ノ水の聖橋のほうから眺めたもの。左手に見える石塀は、現在でもほぼそのままの形で残っている。人々が歩いている坂道は昌平坂という。聖堂の学問所を昌平校といったので、そこから名づけられた。昌平とは、孔子の生地昌平からとった名である。

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(神田神社暁 明治十三年)

この版画は初版時には「神田八雲神社」とあり、のちに「八雲」の部分を削って「神田神社暁」となった。もし八雲神社なら、本体の神田明神ではなく、神田祭のお旅所となる大伝馬町の八雲神社ということになろう。この絵を見る限りは、神田明神の境内には思われない。

木立の散在する境内の奥にある建物は、神輿を収納する倉庫だと思われる。町内に神輿を収納する場所のない氏子は、神社内の敷地に神輿を預かってもらう風習が、神田にかぎらず、方々であった。






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