母べえ:山田洋次

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山田洋次にしろ吉永小百合にしろ、ある種の日本人から目の仇にされているが、彼らの何がそういう反発を起こさせるのか。映画「母べえ」を見ると、その理由の一端がわかるかもしれない。この映画は、国家への冷めた視線を感じさせるのだが、そうした姿勢が、国家を自分自身と一体視する人々には、許しがたく見えるのだろう。

この映画は基本的には家族愛と人間同士の絆を描いたものだ。そこへ国家が介入してきて、家族を引き裂き、人間の絆を破壊する。この家族にとって国家は、理不尽な暴力そのものである。その暴力の直接の担い手は、この映画の中では警察や検事などの官憲であるが、一般の国民もその片棒を担ぐものとして描かれている。この映画は、先の戦前から戦中にかけての暗い時代を背景にしているのだが、その暗い時代にあっては、権力がむき出しの暴力といった形をとる傍ら、普通の国民も、戦争協力の名目で駆り出され、権力の片棒を担がされていた。そう山田は言っているように聞こえる。

映画がカバーしている時代は昭和十五年から二十年の敗戦までの時期である。東京の下町に四人家族が幸福に暮らしている。町会の名前から、この下町は深川の住吉町二丁目とわかる。父親(坂東三津五郎)はドイツ文学者で、妻(吉永小百合、母べえというあだ名でよばれている)と二人の娘がいる。映画は、この娘のうちの下の子の視点から描かれ、彼女のナレーションにしたがって進んでゆくという構成になっている。

ある日父親が、治安維持法違反容疑で逮捕される。深夜に刑事たちが土足で踏み込んできて、家中を引っ掻き回した挙句、子どもたちの目の前で父親に縄をかけて引っ張ってゆく。逮捕状も捜査令状もない、むき出しの暴力だ。引っ張られた先は深川警察署だろう。ここで拷問を伴う取調べを受ける。留置所のなかには牢名主のようなものがいて、彼が思想犯だとわかると敬意をあらわしてくれる。

妻は面会を求めるがなかなか許可されない。やっとのことで警察署の中での面会を許されるが、拷問で傷ついた夫の姿を見て心を痛める。深川警察署は、小林多喜二を殺した築地署ほどひどくはなかったはずだが、それでも映画の中では十分に暴力に飢えた連中というふうに描かれている。

夫はその後、巣鴨刑務所に投獄され、昭和十七年の正月に獄死する。逮捕されてから一年半後に死んだわけで、囚人として過酷な扱いを受けたと感じさせる。だがこの時代には、徳田球一や宮本顕治をはじめ、名うての左翼運動化が獄中で敗戦まで生き残っているから、投獄された人がすべて短命に終わったということではない。この父親の場合、生き延びる能力が低かったという事情が働いたのかもしれぬ(原作では、この父親は生きて出獄することになっている)。

父親のいなくなった家に、二人の人物がやってくる。一人は父親の教え子という青年山崎(浅野忠信)で、どういうわけかこの家に毎日のようにやってきては、新しい家族のようにふるまう。もう一人は父親の美しい妹久子(壇れい)だ。久子は山崎に好意を持つが、山崎が義姉に恋していることを察して、郷里の広島に帰ってゆく。彼女はそこで被爆し、死ぬことになるだろう。一方山崎のほうは、身体障害のために免除になっていた兵役を課され、南方に向かう途中、乗っていた船が撃沈され死ぬこととなる。吉永は、夫のみならず、大事な人をすべて失ってしまうのだ。

この二人のほかに、さまざまな人々が登場して、暗い時代の中での人間関係について考えさせられるようなことが起る。夫の恩師である教授を頼って訪ねたところ、犯罪者扱いまでされて迷惑がられる。かつて夫の教え子であったものが今は出世して夫を担当する検事となるが、恩師である夫の前で権力を振りかざして威張り散らす。父親がやってきて夫との離婚を迫るが、その理由が、自分自身の形見が狭いという身勝手なものだったりする。この吉永の父親だという男が、山口県の人間つまり長州人に設定されているのは、山田の愛嬌なのだろう。一方、親切な人も出てくる。隣組の組長は、燃料屋を営んでいるが、なにくれとなくこの母子に目をかけてくれるうえに、母親のために小学校の代用教員の口まで世話してくれる。そこには不純な動機はない。純粋に人間的な感情から同情してくれるのだ。この映画に救いがあるとすれば、そのへんをさらりと描いている点だろう。

しかしこの映画には基本的には救いがない。夫は理不尽に逮捕された上に死んでしまうし、ただひとり頼りにしていた山崎も死んでしまう。戦後、その青年の戦友だった男が尋ねてきて、山崎の最後について語る。山崎は、自分が死んでも、私の魂があなたたちを見守ってあげると言い残したそうなのだ。

何もかも失った吉永には、二人の娘が残された。吉永はこの二人を立派に育てることに自分の残された人生をかける。娘たちはなんとか逞しく生き、上の子は医師に、下の子は美術の教員になる。そして吉永自身にもあの世からのお迎えの日がやってくる。その臨終の床で、下の娘が母親(母べえ)に語りかける。あの世できっと父べえにあえるわよ、と。しかし母は首を横に振って答える。「あの世ではなく、この世で生きているときにあいたかった」と。

こんなわけでこの映画は、国家の暴力というものについて、正面から取り上げている。そこには強烈な批判意識が働いている。そこのところが、国家を自分自身と同一化するタイプの人々には許しがたく映るのだろう。






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